Kokone-works

好き放題に、「お酒を飲んだ勢いで」。 サークル活動、はじめました。「ここだけネバーランド」というサークルの主催です。 

ソードアート・オンライン オーディナル・スケール(伊藤智彦)

2/19 

川原礫による原作・テレビシリーズ2作を有する『ソードアート・オンライン』初の劇場映画化作品。当然スタッフ・キャストはテレビシリーズの面子が続投されています。

桃太郎侍』や『木枯らし紋次郎』のような「流浪の凄腕剣士が行く先々で起こる様々な問題を解決する」という、今や古めかしいものとされるストーリーのひな型――『火星のプリンセス』に通じているか――が、VR・AR技術とオンラインゲームというフィールドを借りて魅力的に復活した。いわゆるチート剣士の物語は、実はだいぶ昔から存在したものである。

原作は2001年の秋ごろに執筆が開始されたweb小説。脳神経に接続されたゲームマシン内でプレイヤーが生き残りをかけて戦うというプロットは、同年公開された『名探偵コナン ベイカー街の亡霊』に通じている。このころはインターネットの黎明期で、士郎正宗の原作・および押井守監督の『攻殻機動隊』(とサイバーパンクジャンル)を大衆化させた『マトリックス』の1年半~2年後であった。ちなみに後述の内容にかかわるため記すが、1999年翌年2000年春は『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』が公開された時期である。

 

(以下ネタバレ)
 今回は『ポケモンGO』のムーブメントに通じる社会的見地にもスポットがあてられている。この中で出てくるVRデバイス(作中で「オーグマー:Augma」と呼称される)は、神経系に接続して拡張現実を体感させるデバイスであり、……ここからおもしろいことに、内蔵されている「オーディナル・スケール」というゲームのランキングによって、経産省・大企業から、クーポンやサービスなどの見返りを受けたり、報酬を獲得することができ(作中説明はないが、おそらくそれで生計をたてているものもい)る。それにより、ユーザー同士でハイスコアをとるために、町中のイベントクエストクリアや競争に躍起になっていて、社会的ムーブメントを引き起こしている……中核に悪役がいる。という設定が面白い。

これは、東映アニメーションが制作した『空飛ぶゆうれい船』(日本国内であればAmazon primeで視聴可能。一応『SAO』のTVシリーズも網羅できる)に通じている。黒潮物産というコンツェルンの社長が、企業はおろか政府・マスコミのフィクサーとなり、それらを使って黒幕・ボアの人類を根絶やしにする計画を補助すべく、ヒーロー側の仕業に見せかけて民衆の大量殺戮を行ったり、CMを流して競争をあおり――あの映画では旅行プレゼントの名目でボアジュースなる飲料を大量に飲ませて人間を溶かすという恐ろしい計画に知らず知らずのうちに主人公がジュースを飲みふけったばかりに中毒を起こして……という形で加担していてそれがヒーロー側の危機を引き起こすプロットだった。
この映画は1960年代制作であるが、すでにこの段階でアニメーションに、大企業や政府のテレビや広告を用いた大規模な印象操作に対する警鐘という観点を観客に与える批評性を有していた。それでありながら、60分目をはなさせない優れたエンターテイメントであった。ちなみに若かりし宮崎駿がアニメーターとして参加していて、ゴーレムの戦闘ですでにすさまじい仕事を見せておられたのは説明するまでもないだろう。
ただこの映画はそういう企業の恩恵をめぐる経済競争に飲まれた者たちの愚かさを主題にしてはいない(それでも僕はあのライブ会場にいた人たちとか自己主張のはげしい(吉田尚紀がモデル?)ニュースキャスターのような「大衆側」は死んでくれても特に悲しく思うことはないだろう)。誰でも楽しめるエンターテイメントを志向している。

 

本作のメインプロットは、そうしたところに集まるものの、ディープラーニング集合知による存在の構築である。
一応本作の重村教授の計画については、一例として<humai>という会社の死者を人工知能として復活させる研究がモデルだろう。
(参考・engadget 日本語版「死んだ人を生き返らせる」技術が30年以内に開発されるらしい?【動画】 リンク:http://japanese.engadget.com/2015/12/23/30/
(参考2.How Artificial Intelligence Will Bring Back Dead People To Life Within 30 Years link:http://www.messagetoeagle.com/how-artificial-intelligence-will-bring-back-dead-people-to-life-within-30-years/
しかし一応ナーヴギアの死因については脳みそが焼かれるという設定があるため、SAOプレイヤーが死んだ場合このテを使うことは不可能なので、人々の記憶からスキャンとディープラーニングを行い、存在を構築する……というのであるが、そもそも「そんな人がいたことすら知らない」という場合どうなのだろう(僕だって道端のミュージシャンをよく覚えてはいないし)。
だが、ヒトは死の間際に、これまでの記憶がフラッシュバックするという仮説がある。その記憶を頼りにしようと感じた(あるいはプロットでその仮説を用いている)のだろう。
であれば、今わの際のフラッシュバックからユナの記録を探り出せるのではないか。重村教授とエイジには、SAO内でユナの弾き語りを聞いていた多くの者がいる、という確信をもって行動に及んでいる。
彼らが記録集を開いて「僕は出てこない/覚えてもらえない」ということに固執するのは彼ら自身のプライドによるものというより、認知されていることが自らや近親者の生死にかかわる状況に置かれたからである。

私見ながら、ある社会的問題について異議申し立てするときの手順が、「お役所へ申告する」ところの一つ前に、「SNSで炎上させる」というものが加えられつつある。まず世論で人を動かさなければ確度を持った「声」にならないので役所が全く動いてくれなくなったため、この状況が確立されつつある。 もちろん、アフィリエイターやYoutuberがアクセス数に基づいた利益を増収させるために時に破壊活動や誹謗中傷も辞さない状況も。
……という世の中に符合するような、現実的な問題が見え隠れしたように筆者には思えた。SFやファンタジーの醍醐味の一つ。

こぼれ話であるが、本作を手掛けた伊藤智彦監督(本作が劇場アニメ監督デビューとなる)は、かつてマッドハウスという会社に勤めておられた。彼は『時をかける少女』(2006)『サマーウォーズ』(2009・いずれも細田守監督作品)で、助監督を務めていらっしゃった。細田守映画の中核を最前線で務めたといえる彼が、氏の影響を受けていないわけがない。

であれば、ネットのからむ危機をゲーム機器を使って解決するというプロット、バイクの二人(三人)乗り、プレゼント(指輪←→髪飾り)、スグの「島根にパソコンがない(転じてそこから決戦に駆けつける)」、あまりに強大なラスボス、ラストバトルの剣を一振りしてSAOのボスモンスターを蹴散らすキリトの一騎当千ぶりetc...は、間違いなく『ぼくらのウォーゲーム』の熱いオマージュとみて問題はないはず。(なのでもう一度劇場に戻られる際、ご覧になってから行くことを推奨)。ちなみにエンド・クレジットの右でそれぞれ別の原画マンが描いた主要登場人物がインサートされるレイアウトまで踏襲されている。僕はこれを伊藤監督自身(と川原礫氏)の細田監督(やこれまでかかわった作品のスタッフ達)に対する謝辞であると解釈しました。

ちなみに先ほど『ポケモンGO』をちらっと話題にだしましたが、『ポケモン』劇場版1作目の『ミュウツーの逆襲』も、娘を復活させようとするもかなわぬ夢と終る教授・その娘がらみのトラウマを抱えて闇落ちした敵役・そして演ずるは舞台俳優(SAO:エイジ:井上芳雄 重村教授:鹿賀丈史 ←→ ポケモンミュウツー市村正親)という共通点もあったりとか思い出したり。あんまり関係はなさそうですが。

今やってる映画では最も面白い部類の一本でしょう。オススメ……したいんだけどなあ。公式(アニプレ・角川・アスキー)がまさしく本作で異議申し立てしてたことそのまんまなことやらかしてなあ。鷲崎健さんを切り捨ててどこぞの戸田奈津子みたいな糞商売やってる馬の骨アナウンサーを使うなど。

2/22 どうでもいい追記

名匠・鈴木清順監督が亡くなられた。清順監督の遺作が2005年の『オペレッタ狸御伝』、その一つ前が1999年の『ピストルオペラ』である。このラスト2本の音響周りを手掛けたのが、本作の音響監督も手掛ける岩浪美和音響監督であった。また清順監督が生前『ルパン三世』を手掛けておられ、それがアニメーターに影響を与えていることは周知の事実で、本作のアニメーターたちにおいても例外はないはず。
そして、来る2/24に日本公開を控える『ラ・ラ・ランド』において、デイミアン・チャゼル監督が鈴木清順監督の『東京流れ者』からの影響をお認めになった。

この2本はしばらく各劇場の最大箱を占拠し続ける作品となるでしょうが、清順の影響を濃く受けた2作品がいま社会を席巻しているのは、因果なものです。

ラブライブ!サンシャイン!! #8 『くやしくないの?』

夏コミの新刊を見知らぬ人に1部しか受け取ってもらえなかった人が通りますよ。

 

ライバル:Saint Snowをクローズアップしつつも「その道の最強」として描くのではなく、実力は上でもトップならざる者として描く。
「最高だと言われたいよ、真剣だよ」

梨子「この町(東京)、1300万も人が住んでいるのよ」
地元の優しさと都会の厳しさの対比(WUGもどシビアな形でやってたけど)

千歌「本戦に出場している人たちなんだから入賞できなくて当たり前」
曜「入賞すらしていなかった」
→「お客さんの投票で入賞グループ決めたでしょ」――さらに最下位かつ支持ゼロという追い打ち。

スクールアイドルは名前にマカロンを入れるのが好き?(名前にマカロンが入ってるグループが11位までに2つ)
入賞者リストの1位と2位を映さなかったのは伏線?

もうすこしで入賞だったSaint Snow「いいパフォーマンスだった。でもラブライブに出るのはあきらめたほうがいい」「馬鹿にしないで」
前々回のPV撮影からの、(東京からやってきた)梨子に視点を与えられて初めて郷里の魅力に気づく、てとこに出ていた兆候。

千歌「努力して頑張って呼ばれただけですごいこと、胸を張っていいと思う」曜「悔しくないの?」

ダイヤ「おかえりなさい、よく頑張ったわね」これまでとは一転、暖かい声で傷心のルビィを抱きしめる。本当に妹を愛してる。通過儀礼を受けた者への激励でもある。
ダイヤ「スクールアイドルの爆発的な人気の上昇により、レベルの向上を生んだ」
現実のあらゆる分野のあらゆる場所で起きていること(アイドルアニメも多例にもれず)。本家の忘れ物。

3年生の過去。フィルターのかかった画面。いまの千歌のような面持ちで出発したダイヤ。「なにも歌えなかった」

「いつかこうなる(自分たちの成果を根底から否定され挫折はおろかユニットが友情もろとも分解する)と思っていたから」

マリの抱擁をすげなく断る果南。果南「誰も傷つかずにすむのが一番」マリ「失ったかけがえのないあの時を取り戻したい」
3年生「過去にとらわれる」というテーマ。後輩に引導を渡すがことごとくぎこちなさすぎるというズレ。その原因。

曜が昔の泣いてる自分を千歌に引っ張られる写真を見つめている。
電車の「悔しくないの?」というのは本心に気が付いた上で、たぶん千歌の本音を引き出したかったというのが。

千歌「何か見えないかなって」「何も見えなかった。だから思った。続けなきゃって」
「このまま続けても0のままなのか1になるのか、わからない」

千歌「悔しいにきまってるじゃん!」
あくまでも千歌のモチベーションは「(スクールアイドルになって)輝きたい」であって、「廃校阻止」じゃない。
例えばマンガ書いても面白いことやっても誰にも振り向いてもらえない。悔しい。誰にでもあることですね。俺だってあまりにつらくなってブログの夏コミで新刊だすよーって記事消したもん。

花田脚本は良くも悪くもコミカル志向(だからシリアスやるたびに失敗する)なんですが『響け!ユーフォニアム』の久美子の心境の変化の過程を描いて大成功したのを機に、挫折を描くことが億劫でなくなった気がします。

「0を100にすることは無理、でも1にすることはできるかもしれない」
Aquorsのアイデンティティを本当の意味で確立させること。この物語のテーマが固まった。「じゃあもっと努力すればいいよね」だけでは絶対に解決できない難しいテーマだけどどう処理するのだろう。

雨が降って光が差し込む、インド映画ばりの天候を駆使したフォトジェニックなシーン。
雲間から差し込む日の光は、2話に続く「神様の象徴」ですね。いつも登場人物の思いを隠す象徴たる「暗闇」は天照が引きこもった穴の象徴ですね。

 

ラブライブ!サンシャイン!! #7 TOKYO

コミケ疲れの覚書ですがあとでブラッシュアップしていきたいです。暇があればいいのですが。

前回、みずからの郷里についての魅力と向き合ったAquorsがPVの評判をうけて東京のイベントに呼ばれるという話。

だんだん個々のサブプロットが機能しつつある。ルビィとダイヤの妹の姉/姉の妹離れのプロットが強い。
ルビィ「ちゃんとしたイベントで、去年入賞したスクールアイドルもたくさん出るみたい」
この一節。現実でも最近は利益目的のやっつけ運営なひどいアイドルイベントも即売会も増えてるみたいだから、心配かけまいと加えたくなるよね。

姉妹のパートだと、比較的ルビィの目線に高さ合わせたりして寄り添う演出がよく見られる(そのほかにもどちらかというと1年2年にカメラアングルを合わせていますが、後輩たち中心の話だからコンセプト的にあってる)。

千歌「内浦から東京行くなんて一大イベントだよ」
登山の恰好をした花丸。『バグズ・ライフ』のフリックが田舎から都会に出るのにリュック背負って大荷物って恰好してて、都会につくや「田舎者に見られないようにクールに行こう」というギャグがあった。

18きっぱー遠征組おなじみの熱海からのあの9つぐらいある長いトンネル。
そこを抜けての根布川駅通過。本家2期12話でμ'sが解散を誓った場所。μ'sらの郷里を離れた冒険の裏返し。

アキバについた千歌「原宿っていっつもこれだからマジやばいよね~」
嵐の『ピカ☆ンチ』でも主人公たちが17歳になって東京郊外の団地から初めて原宿へ行く、というシーンがあってそこでメンバーが地方感丸出しの恰好をしているのですが、なぜか原宿=田舎者にとって都会の象徴という話をよくみるなあ。 (いや、たぶんコラボショップを置いていた場所つながりなんだけどね) ちなみに僕はブリスターというアメコミショップ、もしくは代々木体育館/NHKホールへ行くのによく利用する駅ですね。

ちょっと気になったのが、背景に思いっきり写実的な室田さんキャラとはかけ離れたリアルの写真トレスな感じの広告があったこと。
トレスはあって当然の技術という認識ですが、いわゆる3次元的な人間の顔の子が作中にいるってこと……?劇場版の水樹奈々さんの広告はどうだったかな……。

アキバのスクールアイドル関連ショップに寝そべりグッズ。女性向け同人誌を見て赤らむ梨子。

神田明神聖地巡礼。階段を走る千歌。「我々もやったこと」。

ご神体の前で歌う二人組。ついにライバル登場!

旅館の夜。音乃木坂に行ってみたいというメンバーたち。梨子だけが拒否する。

「音乃木坂=伝統的に音楽で有名な学校」。確かにそんな設定あった。挫折したピアニストに言わせることでその設定を活かせている。

千歌「「期待に応えなくちゃ。失敗できないぞ。」って」

ラブライブ!の朝トレのシーンは本家から今までの全体通して抜群。本当に好き。

UTXのモニター。千歌「ここで初めて(μ'sを)見たんだ……」
しかしなぜ1話の冒頭で千歌はあの場所にいたんだろう。という疑問が再燃してしまう。

ラブライブ発表。ドーム大会。

メンバーを象徴する白い鳥の群れ。6羽。

あのアナウンサーが再び。「はっちゃけちゃってねー」

神田明神で出会った二人組(Saint Snow)。エンディングのボーカル担当までそのまま持って行ってしまう。てことはA-RISEレベルの扱いではなく、もっと深く物語に関わりを持たせる存在として描かれる?

 

前回の『PVを作ろう』の記事で、Aquorsの郷里に対する姿勢への不満を書きましたが、これが実際伏線になりそうな感じあるんですよね。ライバルキャラに徹底的に蹂躙された彼女らがもう逃げ場がないと思ったとき、郷里に救済され、PVを作ってた時のなりきりではなく、真の意味での大切さに気付く、という方向にもっていくこともできそうな気がするのです。今回比較的痒い所に手が届く感じなので、どうなるか見ものですね。

ラブライブ!サンシャイン!! #6『PVを作ろう』

マリ「果南が好きなのね、ダイヤは」

ヨハネ「普通って大変」
花丸「無理に普通にならなくてもいい」

「(浦の星が)統廃合でなくなるかも」さりげに今回大事なのは、廃校がアイドル活動の出発点やモチベーションではないということでした。「“普通であること”にコンプレックスを抱く女の子」の話。

千歌「音乃木坂と一緒だよ!」
キック・アス』の母親を亡くしたときの主人公か。

「学校を救うために」というカルマにとらわれる。

本家で「人気を上げるため」といういささか弱い(「問題」ではないけど)PV作りの理由が「廃校阻止」というところに直結してる。
本当に本家のシナリオの取りこぼしを補完しようという意思が伝わってくる。

黒沢姉妹の会話。「遅くなるわよ」ダイヤが本当に妹思いなのが伝わってくる。真面目にスクールアイドル部設立に反対してたのは妹にちょっかいだされたから論を提唱・支持したい。

youtuber/ニコ生主「簡単に編集してみたけど、お世辞にも魅力的とは言えないわね」

本家と異なる「専門家」の存在。

日が暮れる前に終バス。さっきのルビィの「日暮れ前に戻りなさい」とのつながり。

みんなが帰ったあとの喫茶店「今気づいた、私この学校が好きなんだ」
ここで挿入するのは不自然な感じがする。PV撮影しててというより、もう少し後になってからでもいいと思うのだ。
もちろん学校のため、という点に着地させたいのはわかるんだけど、TVシリーズにおいて、彼女らの活動と学校(の人間)との関わりが薄く、あまりそういう風には感じられないのだ。

果南とマリ。「力を貸して」「わたしはカナンのストーカーだから」

マリ「本気で……それでこの体たらくですか」「努力の量と結果は比例しません。街の魅力を理解してるかどうかです」

ヨハネ(1年)→千歌(2年)に「なに意地はってんのよ」。さり気にタメ口が公然化されてる。

ダイヤの舞踊。千歌「感動しました!」
舞踊とはそもそも神の踊りをまねたものですね。やっぱり「神様/神のご加護の話」なのである。
――そういえば、たまたま『ブルース・ブラザーズ』を見たのだけど、あれも「神様の天恵で音楽の世界に舞い戻った悪たれ二人がとんとん拍子で修道院を救う」って話でしたね。ていうか、この映画そのものが『ラブライブ!』の元ネタですね。また『ガルパン』の水島努監督が(絵コンテ・演出担当作品に必ずその要素をしのばせるほどに)こよなく愛する一本。

勧誘。ダイヤ「あなたたちの気持ちはうれしく思います」
ダイヤ(三年生組)のかつてスクールアイドルで折れた過去。前にも書いたけど『おジャ魔女どれみ』のぽっぷのピアノのエピソードを想起させるなあ。
なぜ「3年生だけが」妙に距離を置いているかに的確な説明。
ただこの3年生の少し険悪な雰囲気は、作品要素としてはかなりいい感じなので、少し重たくてもいいので、どうして3年生は瓦解したのか、そして1年と2年が同じ道をたどっての、底の底に落ちてからの復活というところを丁寧に突き詰めてくれたらありがたいです。

海開き
梨子「この町ってこんなにたくさん人がいたんだ」

 久方ぶりの挿入歌。

「心の中でずっと叫んでた、「助けて!」って。ここにはなにもないって。でも違ったんだ」「この場所からはじめよう。できるんだ」
ここで解決描写めいたものにされるとうーん……となる。てことは、千歌ちゃんは学校やら周りをとりまく環境がそんなに好きじゃなかった、正直あまり魅力的に感じていなかった上で廃校に浮き足立ったことで。この見せ方だと(どんなに希望の見えたって笑顔でも)、街の魅力を発見というよりは「妥協してる」ふうにも捉えられてしまうので、「学校が好きなんだ」ってセリフに疑問を感じてしまう。
もちろん千歌は(先ほど述べた)『キック・アス』のデイヴみたく、「なりきって」るだけかもしれないし、彼が初めてヒーロー活動を成功させたときと同様に「普通であることのコンプレックス」から解放された(/ている)わけですが、その原因を自分に突き詰めるか、環境につきつめるかで、このシーンの解釈(と視聴後感)が変わってしまうのだ。今回、沼津駅近辺を地元に見せかけようとしたシーンに代表されるように、あまり梨子以外に地元愛というものが見えない構成にした点は(キャラの印象づけとしては)失敗だったと思う。「私が輝けないのは地元のせい」と言ってしまう(作り手もキャラクターも思ってはいないだろうけど、もし結果的にそうなってしまうと)と、いままでの千歌やAquorsの行いが傲慢にみえてしまう。もちろん、3年生のような分解や挫折につなげるとかのシナリオの狙いの可能性もあるので即座にノーとは言えない(この方向につなげたら手のひら返して今回の話絶賛します)。

解決法を示していなかった。尺や予算の問題で厳しいとは思うのですが、Aパートは前作の地続きに「人気がでない」点だけにフォーカスを当てて(廃校のくだりはもうすこしあとに引き伸ばして)、「出来上がったPV」をそのまま見せる/撮ってるビデオカメラの視点で構成すればよかったかも。そうすれば、5人が「(本当に真剣に考えても)わからない」視点を視聴者が共有できる(いやみなく感情移入できる)と思うのです。

 

(追記)2回目・ちょっと友人(今回の話をホメてました。もちろん筆者は今回を絶賛する意見はあってしかるべきと考えています)からの「梨子の観点から見てみたら」というアドバイスをうけて視聴。海開きの様子を見て「これなんじゃないかな」。地元っ子の観点からは気づけない視点を供するキャラとしての存在意義。2話の「海の音」を聞いてから彼女が見つめ続けてきた「色づいた世界」(ぶっちゃけると、視聴者の多くがあの町の見え方に梨子の視点を共有したはずである)。

ただ、物語のテーマ的に、梨子の意見に単によいしょするだけだけでなく、ほかの5人にも、マリのダメ出しのあとに(「聞いちゃダメな気がした」=自分で考えるべき、と千歌に言わせてしまった以上)なにかのアクションが欲しかった気がするのです。ただし、今回と来週で前後編構成になってる可能性がある(5人にとって東京は「特別」である一方、梨子にとっての「色あせた世界」である対比)ので、まだ結論は出せないわけですが……。

 

     

ラブライブ!サンシャイン!!#5「ヨハネ堕天」

※タイトル表記にミスがあったため修正しました。申し訳ないです。

 

すみません、週末は『シン・ゴジラ』見て衝撃を受けて更新が遅れました。怪獣王の日本凱旋にふさわしい大傑作でした。それにしても『シン・ゴジラ』はすごい。今までブレずに空想科学に拘った庵野秀明の真骨頂!……って失礼、これは『ラブライブ!』の記事でした。いや、頼むからあなたが後悔する前に『シン・ゴジラ』見に行ってくださいお願いします。

 

ニコ生っぽいものをやってるヨハネ。確かに『ラブライブ!』の元ネタのひとつにニコ生/youtuber文化ってのは当たり前すぎて忘れてた。

 

ヨハネ高校デビュー失敗から幕を上げる。一方Aquorsは人気獲得のための試行錯誤。
ヨハネが普通になりたいのも天使になりたいのも堕天使を演じるのも、ひとえに「受け入れられたいから」
ことごとく「普通」であることをコンプレックスにしている本作、同期に“あの”なによりも普通でありたかった異常者・吉良吉影大活躍な『ダイヤモンドは砕けない』アニメ版が放送されているのは何かの縁かな。

 

ヨハネがそちらのアルファみたいなもんだった一方でパソコンが使えない花丸。
「こんなに弘法大使空海の情報が!」ある種仏教と切っても切れない関係な話だからねえ。

 

1.ヨハネ恥ずかしくなって不登校→クラスで実は気にもとめられていなかった。
2.ラブライブ!Aquorsイメチェンでランクアップからのランク急落。
この2回は対比であり、ヨハネ自身のアイデンティティを世界から否定される所につながっている。

 

まああれですね。みんなニチアサやウルトラマンやアニメ特撮なんて見なくなっちゃって、自分も交友の一番のネタだったはずがコミュニケーション立ちいかなくなって、孤立しちゃうかそれを恐れてさんざんブンドドしてたおもちゃをすててしまうという、『トイ・ストーリー』シリーズの悲しみに通じる思春期男子の心境にあてはめればいいかなと。「幻想や夢」それじたいはどんな気持ちでいるんだろうね。

 

 「これ本当の自分なのか?天使みたいにキラキラしてたのに何かのはずみにこうなったのでは」

もちろんこれは字義的な意味だけではなく、今だからわりと声高に言えるけど、オタク批判が今なんて比較にならないくらい酷かった十数年前とかだったらまかり間違っても通らなかった話ですね。

飛び抜けた容姿でもない限り、アニメ漫画の話をすれば確実にマイノリティ及びスクールカーストの下に追いやられる暗黒時代を過ごした諸氏は、ヨハネの抱く恐怖とジレンマを理解できるはずである。こぼればなしをすると、筆者の思春期は『電車男』公開時で、この地獄最大のピークであった。いや、思春期真っ只中にAKBをはじめとするアイドルブーム・アニメブームに乗れてる今の子にとってはどうでもいい、キャラが原作と違うと切って捨てられる話か。うらやましい限りである。『ハルヒ』あたりから経済効果が明確化してマスコミがすり寄っていくまで、そんな暗い時代を過ごした人間となれば、人間不信になって精神壊したって仕方ないもんである。

ところで『桐島、部活やめるってよ』の映画版。映研のように、好きなことやってるのが一番楽しいって話がある。でも世の中そうはうまくいかない。個人の世界に浸っていると、あの映画のラストで桐島を失った、カースト上位のバレー部が、カースト下位の映研が楽しく撮ってたゾンビ映画を潰しておきながら図々しく「総ての人間が俺を憐れむべきだ」と言わんばかりに世界で一番不幸そうな顔をしている。といった具合に誰かが茶々を入れてくる。ヨハネもおそらく、自分の大好きな信じたものを捨てようとするぐらい価値観を変えてしまうほどに、中学時代にリアルでいじめに遭ったとか孤立したとか相当な辛酸をなめさせられたのだろう。(まあニコ生でリアルネット双方でいじられまくった可能性もあるけど)

 

あと、庵野秀明の話(前フリ回収)。あのひとほんとにヤマト・ウルトラマンをはじめとする特撮と日本映画大好きでそれで育ってきてて、『エヴァ』に至るまででアニメ界で大いなる下地を作ってからもっと「外」に受けようと思って村上龍の『ラブ&ポップ』撮ったり『彼氏彼女の事情』でアート系や少女漫画もの作ったまではよかったんですが、これまたアート系映画の『式日』で大顰蹙を買って、しばらくのちに彼を育んだ空想科学の贅を凝らした『ヱヴァ』を作り、空想科学の極北たる『シン・ゴジラ』を作って大喝采を浴びているってシンクロがおもしろいです。

そうそう、共同監督の樋口真嗣も同じ感じで、監督業で2006年に東宝・TBS出資で『日本沈没』リメイク版撮りましたね。TV局の要請か、草彅剛と柴咲コウの恋愛を入れなければならなくなったらしく、苦心惨憺考え抜いて、あのヘリポートで草彅剛が死地に赴く直前に柴咲コウを抱けない。というラブシーンが誕生してしまったですね。樋口監督はこれ以外にも多大な制約を強いられ、特撮のカット割り以上に必死で純愛について考えたのに、大衆は「くだらない」と切って捨ててしまった。泣ける話。そんな彼もまたそういう門外漢な恋愛描写を一切排除して今回の『シン・ゴジラ』を作った、というのもまたおもしろいシンクロですね。

 

結論:オタクの存在論についての話ですね。今回は。

「そのままでいいんだよ、自分が好きな姿を見せることがベスト」(俺は受け入れてやるよっていう救済)
ラブライブ!』としては正しい着地点。ただ後半でその「代償」を描くか描かないか(本家が逃げてしまったテーマ)が傑作になるかならないかの分かれ目。

 

あ、あとこれ『シン・ゴジラ』の話ともつながってくるんでちょっとご覧になってほしいんですよ。ちょうど今回のエピソードと同じようなシーンがあるんで(キツメの女性が書類/PCをスライドさせるシーンと今回のゴジラの正体の有力説

 

   


『シン・ゴジラ』予告2

 

ラブライブ!サンシャイン!!#4「ふたりのキモチ」

ラブライブ!』の最も観客の涙を搾り取る要素たる「自分を解放する」話。

 太宰治 お伽草紙(リンク先:青空文庫)を読む花丸。

 『瘤取り』『浦島さん』『かちかち山』(『桃太郎』/諸事情により掲載できず)『舌切り雀』の短編が太宰の解釈により綴られている本で、「評論の骨法」そのものでもある結構大事な本。ちなみに中身はかなりとんがっているのでめちゃくちゃ面白いです。そこに花丸の孤独さが表れていますね。なまりや運動音痴にコンプレックスをもっているあたり、ヘタしたらヨハネよりも……。
 『御伽草子』を読み終えた直後にルビィと出会う。彼女らはおそらく孤独を分かち合ってきた仲である。
 ちなみに太宰といえば、『斜陽』は安田屋旅館で執筆されたものでしたね。

 今回、解放に関しては花丸とルビィに焦点があてられている。ルビィに関してはスクールアイドルと姉妹の関係が密に絡み合ってるあたり、シナリオのブラッシュアップが感じられる。ダイヤさんとマリの関係、体育館に残されたホワイトボードの跡。気になる伏線。

 凛の記事を見る花丸。今回の話のテーマ。「Let it go.」

「ミューズめざして、よーいドン!」といってみんなで階段を登る。山頂=天国で、そこから中のあたりまで降りてきてルビィがダイヤに気持ちをうちあけるのは生まれ変わりのメタファーというのは考えすぎかなあ。(是枝裕和の傑作邦画『歩いても 歩いても』のとあるシーンで思い至る)

   

ラブライブ!サンシャイン!! #3「ファーストステップ」

トリビア:沼津には5DXがある。

 一応本家1期三話「ファーストライブ」に対応する話。
目新しい事をやるより、前作のオマージュや「今、ラブライブをとりまく」状況、シナリオの穴を埋める方向性で下地を強化しようというやり方、私は支持します。

 たとえば、前作でにこの初登場が何故サングラスにマスクなのか、というのがいまひとつわからなかった(あるいは顔バレを避けるためというのであればあまりに単純すぎる)のに対し、ヨハネには高校デビューの失敗(外から身を守るため)という理由づけがなされていたりしますね。最後にマスクをとったのは、たぶん何かを決意したからで、そういうのに心を動かされます。

 ファーストライブ。講堂にちらほら人がいるというのは誇張もなく、なんとも言えないリアルさ。そして集まってくる人。ダイヤの「これは今までのスクールアイドルの努力と町の人の善意があっての成功」というのは、たぶん今のサンシャイン!!支持の状況を表している、という解釈はめからうろこ。だからこそ前作を踏襲した展開がおもしろく映ります。体育館の後ろからロングでステージを捉えるショットがこのエピソードのベストショットです。

 

千歌「奇跡だよ!」「名前決めようとしてるときにこの名前(Aquors)に出会ったの」というのは、ARIAの灯里さんみたいなロマンチストな性格付けですね。ぶっちゃけ人為でなければありがたいところ。