Aqours 1st Love Live! Step ZERO to ONE の「格差社会」を見せつけた愚行
去る2/25、26の土日2日間にまたいで横浜アリーナで開催されたAqoursの1stライブに行ってきました。
……両日LVで。
もちろんBD1巻、2巻の特装限定版は購入して、一般2次抽選まで応募し続けました。その結果は両日現地「0」枚でした。
あまたの公演が永遠に失われることを考慮すれば、LVを開催してくれるだけありがたい話です。それに高額転売でのチケット購入に反対する声明にラブライブ!プロジェクトも名乗りを上げています。その状況を汲んで、両日LVで妥協することを選択した、自分の青臭さを誰に責められても文句は言えないでしょう。
僕の心がぐらついたのは、2日目のLVで「スタンドの後ろまで見えてるからね」という一言(誰が言ったかは伏せる)。そう、Aqoursのメンバーにとって、「一番後ろ」はそこなのである。プロンプターに「LVのみなさん」と書かれていなければ、それが普通の認識なのである。つまり、LV会場にいた、私と同じく現地を踏みたくて踏めなかったファンは、ここで一つの断絶を感じさせられる。
そんな疎外感を忘れさせるパフォーマンスを供しようとAqoursのメンバーは奮闘したでしょう。あるいは。腐っても1st。これが初めてのワンマンライブ。わけもわからず右往左往していただけかも。それは仕方ないです。
しかし、決定的な悲劇がAZALEAの「トリコリコPLEASE」のMC直後に起こる。
トリコリコの魔法をかけるくだり。それにかかるや観客のサイリウムがピンクに代わってしまう。という観客参加のくだり。
センター→スタンド→アリーナ。ときて、「まだ“見えてない人”がいる!」。そう言及する。まずは「立ち見」である。トリコリコリコ。
そして「まだ見えてない人がいる」。僕らは高まった。(LV組だ)。
ところが、そこで「会場のみんなもLV組に魔法をかけてください!」という指名。
は??????????
本当にそういう感想しか出てこなかった。現地組は全員、AZELEAの「純度100%」の魔法にかかることができた。
なぜそこにLV組が加わる必要があったのか。
現地組の観客がLV組に「ある種の言及」を行うことが何を意味するのか、Aqoursメンバーもしくは演出もしくは現地の観客、あるいはその全ての人間理解していなかったのかもしれない。だから改めて書いておく。
LV組は「認識したくない存在」を意図的に見せつけられ、しかもAZALEAのトリコリコの魔法は、LV組だけAZALEAが我々に与えたもうたものではなくなってしまったということである。
そして何よりこのことで、現地組がLV組に対し「負け組」の烙印を刻み、犬のウンコのついた靴で踏みつけるがごとし屈辱を与える事を許してしまったのである。
我々LV組は、現地を盛り上げるための踏み台・生贄にされたのだ。それも信仰の対象たるAqoursの主導で!
この瞬間、AZALEAの「魔法」は「呪い」にかわった。
皮肉にも、高額転売の誘惑に屈しなかったLVの観客は、公式に最悪の形で「お前は客や仲間ではない。幻にしがみつく寄生虫だ」と言われてしまったのである。
それはあまりに完璧な、壁という表現では収まらないほどの断絶である。
だから逢田さんがピアノを失敗して泣き出したアクシデントがあっても、セカンドステップの発表があっても、強要された以上完全なる他人事にすぎず、僕らLV組の声援や感動の叫びも、誰がどんなにどう取り繕っても蠅の羽音以下のものと受け止められてしまうということになった。
このリカバリーのきかない、死んでも取り返しのつかないレベルの失敗は、故意に発生したものである。なのでAqoursのメンバーをせめることはできない。
だが、僕はもうそれ以降この公演を神戸のLV会場から他人事のように見つめるしかできなかった。残りの時間はあまりにショックで、座ったまま虚空を見つめていた。
どうあろうと「現地にいなかったものに人権はない」というのが『ラブライブ!』の見解である、ならばそれを否定することはできない。4000円と手数料とLV会場までの交通費とおよそ半日ぶんの時間を完全に無駄にしてしまったのは自己責任だ。訴えても負ける。「悪いのはお前だ」とみんな僕に言って押さえつけるだろう。
そしてアイマスにおける春香さんの名言「後ろの席までちゃんとみえてるからね」が呪いにかわってしまった瞬間を見た後悔。「後ろ」よりも「うしろ」の存在は不在や裏切りと変わらない真理。落選した者に一縷の希望などというものはどこにもないという現実。1stだからこそオブラートにつつまずはっきりストレートにみせてくれたもの。
時間と金を無駄にした上で得たもの、その後悔をここに記しておきます。
追記:現地に行けなかった人間を排除する思想は、それはそれで、自分たちの元に人がいないことを何より恐れるAqoursらしさというべきなのかもしれない。