Kokone-works

好き放題に、「お酒を飲んだ勢いで」。 サークル活動、はじめました。「ここだけネバーランド」というサークルの主催です。 

アイマス台湾旅行記簡略版

2016/11月暮れ

アイマス台湾ライブ開催を知る。
単独ライブとしては初の765・ミリオン組合同公演。
サイパンと西武(メットライフ)はデレもいたからノーカン。あとリリイベとムビマス打ち上げで一応前例はあるものの、公演として初めての765PRO LIVE THEATERの成立である。

2016/12初旬
クレジットカードとパスポートがあれば国内から自力でチケットがとれると知り、作り直す。
5年:11000円/10年:16000円 + 証明写真代と交通費なので、シリアル代と考えれば実質無料()

2016/12/17
チケット一般販売。クレジットカードで買えた。発券は台湾のファミマでできるらしいと知りそれまで待つことに。

2017/01/22-23
765プロミ。台湾LV発表で肩透かしをくらう(海外展開を意識した公演なので、韓国・香港などの地域は順当)。現地埋まってないのに……。

2017/3/10-12
ミリオンぶどーかん。期待だけ高まっていく。

2017/04/19

台湾公演直前のミリラジで大爆笑。はらみーともちょの組み合わせが強すぎる。

2017/04/21
夜22:00ごろに日本発。みっくは残念でしたがインフルエンザなら仕方ないです。発症したのが出国前(おそらく)だったのが不幸中の幸いでした(外国行っちゃってからだと本当に治療もかかる手続きも大変だし戻ろうにも帰路便搭乗拒否されてただろうし)。

2017/04/22

1:00
深夜に台湾・桃園空港着。雰囲気的には福岡に近い。
ついてびっくりしたのが、なんと空港ラウンジ内で無料でシャワーが浴びられること(日本だとまず1000円単位でお金取られる)。
普通なら行列ができるものと推察するが、深夜帯というのもあってなんと全く並ばずにあびられた。

深夜バスで台北へ出てネカフェにいこうかとも考えたものの、空港で一夜を明かすことに。いろんな場所に椅子があるものの、多くは埋まっていました。

6:30
とりあえず空港のフードコートで朝食。バーガーキングでたまごサンドを。国外に来た感じがしなくてしっくりこない。
7:10
せっかくなので、開通したばかりの空港-台北行きのMRT(鉄道)に乗車。
休日の閑散期というのもあってか、人もまばらである。そして、運よく快速車に乗れた。椅子が進行方向に向いている。

MRTの切符は紙ではなくコイン式です。改札機を通るときにコインを読み取り機にかざし、出るときにコイン口に投入するのだ。エコなシステム。

ちなみに、MRT車内での飲食は厳禁であり、違反すれば罰金が徴収されるとのこと。備え付けのテーブルは罠である。(まあ日本でも在来線で食べるのはあまり良しとされませんが。あと日台ともに新幹線ならOKらしい。)

8:00
台北着。物販買いに会場へいこうと信義線に乗り換えようとするも、浸水につき通路が一部閉鎖。
迂回して迷いに迷って信義線に到着。

8:40頃
台北101/信義着。雨がぽつりぽつりと。TICCにつくとこの段階で物販会場には90人くらい並んでいました。

12:00頃
……まで周りのPと談笑しながら物販に並ぶ。昨日すさまじい勢いの土砂降りの豪雨だったらしい。地下通路が閉鎖されるわけだ

13:00頃
物販は本当にあっさり買えた。物販商品の種類の少なさゆえに救われました。あとスタッフが日本語の通じる方が常勤されてたのもよかったです。

13:30
ゆきがけに知り合ったPにファミリーマートでチケットの発券を手伝ってもらう。多謝。

14:00
徒歩圏内に映画館があると聞いて行ってみる。日本公開未定の『Colossal』鑑賞。アン・ハサウェイ主演の怪獣映画。
日本同様に広告がながれるのですが、録画録音厳禁のくだり「やってるやつ突き出したら賞金あげる(意訳)」というのが。

16:00
ホテルに荷物を預けに行く。身軽になってTICCへ。

17:00
ほぼ定刻通りに開演。

20:00
ゆきがけのP(先の方とは別人)とごはん。感想を語れず。だって「いい……」しか言えないし。

22:00
宿に帰着。やはり同僚がちらほら。夜市のいろいろを教えてもらう。
荷物整理して就寝。

ちなみにSpace Inn Xinyiというドミトリーに宿泊。TICCから歩いて10分圏内。一泊2000円ぐらい。
宇宙船をコンセプトにした宿で、鍵はすべてICカードを読み取り機にかざす。あちこちに自動ドアがついている(すべてカードキーで開く)。
建物の地下が客室で、ゆえに部屋に窓がなく(眠るにはいいです)。でも基本豆球ついてて、換気はちゃんとなされています。
シャワーが複数ついてるのですが、脱衣スペースがないので少々着替えにくいのと、シャワーが管をひっかけるタイプではなく器に置くタイプで出しっぱなしにできない(そのための構造?)のがやや難点かも。トイレはきれいです。

一晩過ごすには快適ないい宿でした。値段も安いですし。

ちなみに、台湾のトイレ事情について。台湾のトイレでは、ティッシュは出したものと一緒に流せません。基本的に入り口に置かれてあるティッシュを受け取って、お尻を拭いてゴミ箱にすてる方式。自宅に余ったポケットティッシュ活躍の場。

あと、ホテルや空港の給湯器の水は飲めます。が、水道水は飲み水ではないので注意(おなかこわしても自己責任)。外でのどが乾いたら素直に最寄りのコンビニで水を買うこと。

2017/4/23
9:00
ホテル発。

10:00
信義の映画館でこれまた日本公開未定作『Dangal』鑑賞。アーミル・カーン最新作。今年のベストに入るかも。

13:00
続けてまたまた日本公開未定作『Get Out』鑑賞。アメリカの異郷系ホラー映画。
ドント・ブリーズ』が貧困を基軸にしたアプローチならば本作は人種差別/羨望が基軸。でも監督インタビューで現実のほうがもっと陰惨だったという悲しい話です。
(ちなみにアンディ・ラウ最新作『Shock Wave』も見たかったものの時間がなく断念。まず今の日本ではインド映画とか香港映画とか米製映画以上に鑑賞が困難だからねえ……『GotG vol.2』もラグなくみられるし、そのへん台湾がうらやましい。

 ちなみに、台湾映画の新作は『Colossal』の予告についてた『報告老師!怪怪怪怪物!』なる作品がちょっと気になりました。)

16:00
TICC着。そして凡ミス。コインロッカーの確保に失敗。
幸い通路側で、係員に聞くと持ち込みを許可してくれた。ありがたいです。

17:00
開演。

20:00
終演。なんと真後ろが宿で名刺交換した方だった。
別れてそのまま夜市へ。
……鶏肉がやばいぐらいうまい(千尋のお母さんがたべてたやつ)! そりゃ欲望のまま貪り食って豚になりますって。

22:00
そろそろ空港行ったほうがいいかなと思い離脱。

23:07
信義線-MRTの通路をゆるりと歩いていたら、係員のおじさん「終電いっちゃったよー!」と
バス乗り場まで迷い、焦る。英語を話せるカップルの方に助けられる。
名も知らぬまま別れましたが、本当にありがとうございます……。台湾の人やさしい。

23:40-24:20
バスに揺られてギリッギリで空港着。運転手、鼻歌を歌っておられたり、ノリが関西のおっちゃんです。
しかし、出国カウンターが大混雑。パスポートに印を押してもらって、搭乗締め切り2分前になんとか乗れました。

ものごとをギリギリでやって生きていられるのは周りのおかげであると反省しました。
今度からはすべてのものごとに余裕をもって人を助ける側にまわっていきたいです。

4/24
0:45
台湾出国。朝5時すぎに国内着。疲れからかLCCなのによく眠れました。
そしてそのまま副業と『美女と野獣(2017)』『ラ・ラ・ランド』を塚口にて鑑賞し、自宅に戻りました。

こうして僕の初めてのライブ海外遠征終了。本当に出会った皆様にはお世話になりました。迷惑かけた方々、すみませんでした。
また台湾行きたいなあ。今回、信義からあまり動かずライブと映画しか見てない感じだから今度はゆっくり観光したい……。

ライブ本編の感想は別の機会に。ミンゴスといなりんがごとく、人を信じようとおもいました。

なんで台湾にいたのかって

当然アイマス台湾公演のためです。旅行記は少々お待ちください。必ずあげます。

 

Dangal(原題)(ニテーシュ・ティワリ監督)

昨年の暮れに本国公開され、世界中で大ヒットを記録しているインド映画(日本公開は残念ながら未定)。インドのアカデミー賞であるところのフィルムフェア賞・作品賞も受賞したこの映画、運よく訪台中に鑑賞できました。原題「Dangal」は「レスリング」の意。台湾現地では封切1か月たつというのに朝一の回でいまだにほぼ満員でした。最高に面白かったです。

内容は、実在するインドの女性レスラー姉妹、ギータ・フォガットとバビータ・クマーリの半生を描いた作品。近年挑戦的な作風の映画に数多く出演する演技派スーパースター、アーミル・カーンが二人の父マハーヴィル・シン・フォガットに扮します。

トーリーのあらまし。(前半のみ記します)

ハリャーナ州ビワーリ地区バラーリ村。
マハーヴィルはかつて名をはせたレスラーだったが、貧困を理由に引退し手に職をつける道を選択した。レスラーの夢は男が生まれたときに後継させようと考えていたが、妻との間に生まれるのは女の子ばかり。3人目の子供も女の子であったとき、彼はその夢をあきらめる。

ある日、彼の長女と次女、ギータとバビータが、なにかと世話を焼いていた近所の男の子オムカラと3人で遊んでいる最中に、男の子2人にからまれる。マハーヴィルが駆けつけるとあざだらけの男の子2人。オムカラがやったのかと問い詰めるが、ギータとバビータがやったという。なぜこうなったのかを彼女らが説明するうちに、マハーヴィルは娘2人をかつての念願だった後継にしようと考える。妻からは大反対。マハーヴィルは「一年続けて見込みがなかったらあきらめる」と説得。ギータとバビータはその日から父と毎朝5時に起床し町内をランニングし、筋トレに励むこととなる。この村には女性レスラーのいるジムがそもそもないため、マハーヴィルは自分の畑の一部をつぶしてリングを作る。

トレーニングは過酷で、同年代の子が普通に食べているおかしを食べることも人形遊びも許されず、授業も眠気とトレーニングの疲れでついていけない2人は不満を募らせる。また保守的な田舎町では彼女らのやっていることは異端であるがゆえに笑いものにされるばかり。学校でもそれが原因でいじめられたりする。
反抗に目覚ましをマハーヴィルの知らない間にいじくったり、母の取り計らいで結婚式に連れて行ってもらったりするが、当然それがマハーヴィルにばれるや怒りを買う。
あるとき2人は花嫁に泣きながら「かれが私たちの父親でなければよかったのに」と漏らす。すると花嫁が「私は私の父が彼ならよかったと思う。あなたたちを(女ではなく)ひとりの人間としてみてくれるから」……
この家父長制の根強い地域にあって、女性は将来は家事に精を出し男を支える役割に就くのが当たり前であった。レスリングは二人がそんな道から抜け出られるかもしれない希望であった。
マハーヴィルも二人の気持ちを理解しなかったことを悔いて、ごちそうであった鶏肉を娘ふたりにふるまうが、菜食主義者の妻の怒りをまたも買ってしまう。ギータとバビータはふたたびトレーニングに精を出すこととなる。

やがて試合を申し込む段になるが、多くの興行主は、観客は女性レスラーの試合など見たがらないと歯牙にもかけない。だがある興行主が性的要素を打ち出せば客集めができると思い立ち、ゴーサインをだす。
そして試合当日。この試合に勝てば賞金が出る。ギータが男子4人のうちだれかと試合を組むことになる。賞金欲しさに握手(試合)を求める男の子たちのなかにあって、ギータはそのなかでも(手を差し出さなかった)最も強い子を選び、善戦するも負けてしまう。ギータはその善戦をたたえられ、特別賞金を手にすることとなる。それから二人は幾多の試合を勝ち進み、村中から栄誉を称えられる。そしてギータはインドのスポーツ学校の名門スポーツ・オーソリティ・オブ・インディア(NIS)へ進学する。一年後、バビータもそのあとを追う。二人は在学中も父の教えを忘れることはなかったが、ギータはここである壁にぶつかってしまう……。

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山と谷あり、そして師弟の愛とみずからの尊厳を高らかに描く王道のスポーツ映画であり父と子の話ですが、インド映画としてはかなり踏み込んだ凄いことをやっています。
スポーツ映画の物語のひな型は「はみ出し者が努力の末に栄光と尊厳を勝ち取る」ですが、それを保守的な村から女の子が自立する話に当てはめています。ついに(『Chack de India』も挑んでいましたが)フェミニズムがテーマである作品の成功例がインド映画に生まれました。

あと後半の展開でよくありきたりと批判されるのですが、たいていのインド映画の家族ものは最後にだいたい和解などの展開をもってくるのでかならず家父長のもとに集合して終わるパターンが多い(と見受ける)のですが、今回はそれにちょっとした変化球が加えられています。大丈夫、前半のテーマを昇華させる素晴らしいものです。

ということでアーミル・カーン主演作はまたも万民にお勧めできる傑作でした。日本公開されることを祈ります。

しかしアーミルの役作りは毎回すごいです。今回父親役を若かりし頃と中年期にわたって演じるのですが、筋肉隆々の若々しい前半から、後半白髪交じりのでっぷりしたぼて腹な役柄、本当に同一人物かよと驚かされます。齢50過ぎてこういうことができるなら、私ももう少しがんばって生きてみようと思います。

『君の名は。』はなぜ大ヒットしたのか?……じゃねーよ

「全国1万人規模の試写(舞台挨拶付き)を七夕に敢行したからです。」

 

 

以上。

 

 

……とまあ、これだけでは記事にならないので、以下罵詈雑言愚痴暴論を振りかざします。

 

 ってこういう記事ってたまたま目に飛び込んでの事故が多くてイライラするんですよ。クリックしてもやたらと「作風云々」「SNSが云々」ってところばかりでお話にならない記事だらけ。とりあえず何も知らない馬鹿をとびつかせようと何も知らない読者以下の馬鹿ライターが記事を書いてる状態。

 

 ちなみに僕が「試写やったからヒットした」と断言できるのは、『ハングオーバー 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』というアメリカで無名俳優に無名監督のコメディ映画(ちなみに近年のコメディでも最高に面白い部類です)が大ヒットした前例が挙げられるからです。

 まあ町山智浩氏とかも2009年当時ラジオでおっしゃっていたのですが、『ハングオーバー』はたいして宣伝費もなく、監督のギャラも%制だったなかを、アメリカ各地の大学で試写を敢行しまくって知名度を高めて大ヒットさせたという話です。

 もちろん作品自体の完成度の高さが前提とはなりますが、見てもらわねばハナシにならないわけで。ちなみに七夕に敢行された全国一斉試写直後の段階で『君の名は。』の作品評価はきわめて高かったです(filmarksでは公開日まで4点台をキープしてました)。

 その後も公開日までの2か月間、各地で試写を敢行し、見事に前売を(少なくともクリアファイル付きの3万枚は)売り切って公開日を迎えました。ある日いきなり宝くじの一等賞があたったわけではなく、まがりなりにもちゃんと伏線があったわけです。

 

 『聲の形』も一般向けのプレミア上映やMOVIX系列の劇場試写を刊行していましたし、『この世界の片隅に』はそもそもクラウドファウンディングの段階で相応の知名度があり、また東京国際映画祭や立川シネマシティなどの劇場側の猛烈なプッシュがありました。

 

 何が言いたいかって、作品云々の出来を論じるより、宣伝情勢の変化について論じるべきってことですよ。もちろん天下の大東宝の映画ですから、テレビスポットやシネコンロビーの広告だって集客に大きくかかわってるのは否定しません。

 

 しかし、アニプレ角川の作品にしてはめずらしく一般試写を敢行しまくった『劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-』の、深夜アニメ映画の規模では驚異的な、初登場1位・2月たらずで20億突破したって話を聞くにつれ、それで試写の成果が認めないというのはいくらなんでも怠惰にすぎると思うんですよ。『ガルパン』の口コミだって、ヒットの大元は立川や塚口に行ったヒトの言伝だし(ちなみに一時期しばらく発売と同時にweb予約で完売を記録しつづけた立川だって、公開日なんて開演直前に行っても買えたものです。『マッドマックス 怒りのデスロード』と同じ後発ヒットのパターン)。

 っていうか、完成度の高さのSNSによる口コミ云々を話題にだしたいなら、一般試写の機会が増えたことこそを話題にだしたっていい。

 そして試写の機会を増やせ。「本物の映画」なら「もう一度見せろ」ってなるはず。実際『君の名は。』だってリピーターが多いじゃない。『タイタニック』は?『指輪』は?『ハリポタ』は?ていうか宮崎駿映画は?『トトロ』や『ラピュタ』や『千と千尋』や『カリ城』を何十回とみてるやつはぜったい多数いる。それでも『カリ城』の2000円とられるMX4D版にお客さん入るし、『レッドタートル』公開直前の『千と千尋リバイバルなんて割引なしの一般料金にもかかわらず六本木と梅田では1週間の会期中全回完売の大盛況だった。15年前の映画が。

 おそらく僕も含めてお客さんは「保証」を求めてる。テレビドラマ映画が(どんなに悪質なものでも)ヒットしたのだってテレビドラマが面白かったって理由だろう。

 試写を多くの人間に見せることで、2度3度同じ映画を繰り返し見ることをオタクの所業から解放され「普通の文化」にだってできる。

 

 でも、それをやらないのって単にライターや編集者がバカだからでなくて、業界や癒着している紙面の意向もあるかもしれないのである。大衆を試写に招くことは、かれらの「優位性」――つまりは誰よりも早くタダで映画を見れる立場にある特権意識――を崩すことにほかならない。一般人に自分たちより早く作品を見られるのはそれ自体が「関係者」にとって屈辱侮辱なのである。

 

 だが、時代は変わったのである。だれもがブログに思い思いの感想を書ける時代。ライターや、人気女優と寝たいとか芸能プロにゴマスリしたいがための当たらぬ企画を通す関係者の存在意義が希薄になりつつある時代(金払ってみる一般人の記事とプロを名乗るライターの記事のレベルが変わらない、いや、それどころかプロが一般人に劣ることさえある。Yahooのトップに評論を乗せる、調べもせずに「一見さん」と恥ずかし気なく公言する渡まち子とかいう脳タリンババアや前田有一の右翼思想へ誘導する記事を見ればプロを名乗る人間のオツムのレベルがお分かりだろう)。

 

 っていうか、そういうウラの話しって一般人に一番さとられちゃいけないことなんだけど、もうすっかり当たり前化してて、向こうも(口封じ以外の方法での)浄化の素振りさえみせないからなあ。

 

 オーケー。もし試写関係なくSNSだけでのヒットが可能になったと全ての人間が自認するとしよう。そしたらこういうあまねくライター様やの存在が映画をヒットさせる要因たらしむるのだろうか。試写室で映画見てる奴の感想文と木戸銭払ってチケットを買う一般人との口コミの違いって何なのか?

 評論やプロの仕事というものに意味はあるのだろうか?

 

 試されているのはアニメ映画だけではない。いや、アニメ映画は十分に険しい通過儀礼を乗り越えた後なのです。

 僕は特権意識にまみれ適当な論旨を振りかざす多くの評論家や関係者に言ってやりたい。「君の名は?」

 

 いや~、まあ愚痴めいた記事になってしまったけど、だれもプロと一般人が作るものの違いを説明してくれないのはキツイっす。僕はおとなしく見たい映画の官製はがきで乞食したり、当たらないプレイガイドの抽選申し込みをやったり、前売買ったり予約購入したり、それでダメならインディーズの映画とかAVやアダルトアニメを見たり、それにも見限られたら別のフィールドに逃げていきます。

Aqours 1st Love Live! Step ZERO to ONE の「格差社会」を見せつけた愚行

去る2/25、26の土日2日間にまたいで横浜アリーナで開催されたAqoursの1stライブに行ってきました。

 

……両日LVで。

 

もちろんBD1巻、2巻の特装限定版は購入して、一般2次抽選まで応募し続けました。その結果は両日現地「0」枚でした。

 

あまたの公演が永遠に失われることを考慮すれば、LVを開催してくれるだけありがたい話です。それに高額転売でのチケット購入に反対する声明にラブライブ!プロジェクトも名乗りを上げています。その状況を汲んで、両日LVで妥協することを選択した、自分の青臭さを誰に責められても文句は言えないでしょう。

 

僕の心がぐらついたのは、2日目のLVで「スタンドの後ろまで見えてるからね」という一言(誰が言ったかは伏せる)。そう、Aqoursのメンバーにとって、「一番後ろ」はそこなのである。プロンプターに「LVのみなさん」と書かれていなければ、それが普通の認識なのである。つまり、LV会場にいた、私と同じく現地を踏みたくて踏めなかったファンは、ここで一つの断絶を感じさせられる。

 

そんな疎外感を忘れさせるパフォーマンスを供しようとAqoursのメンバーは奮闘したでしょう。あるいは。腐っても1st。これが初めてのワンマンライブ。わけもわからず右往左往していただけかも。それは仕方ないです。

 

しかし、決定的な悲劇がAZALEAの「トリコリコPLEASE」のMC直後に起こる。

トリコリコの魔法をかけるくだり。それにかかるや観客のサイリウムがピンクに代わってしまう。という観客参加のくだり。

センター→スタンド→アリーナ。ときて、「まだ“見えてない人”がいる!」。そう言及する。まずは「立ち見」である。トリコリコリコ。

 

そして「まだ見えてない人がいる」。僕らは高まった。(LV組だ)。

 

ところが、そこで「会場のみんなもLV組に魔法をかけてください!」という指名。

 

は??????????

 

本当にそういう感想しか出てこなかった。現地組は全員、AZELEAの「純度100%」の魔法にかかることができた。

なぜそこにLV組が加わる必要があったのか。

現地組の観客がLV組に「ある種の言及」を行うことが何を意味するのか、Aqoursメンバーもしくは演出もしくは現地の観客、あるいはその全ての人間理解していなかったのかもしれない。だから改めて書いておく。

LV組は「認識したくない存在」を意図的に見せつけられ、しかもAZALEAのトリコリコの魔法は、LV組だけAZALEAが我々に与えたもうたものではなくなってしまったということである。

そして何よりこのことで、現地組がLV組に対し「負け組」の烙印を刻み、犬のウンコのついた靴で踏みつけるがごとし屈辱を与える事を許してしまったのである。

我々LV組は、現地を盛り上げるための踏み台・生贄にされたのだ。それも信仰の対象たるAqoursの主導で!

 

この瞬間、AZALEAの「魔法」は「呪い」にかわった

 

皮肉にも、高額転売の誘惑に屈しなかったLVの観客は、公式に最悪の形で「お前は客や仲間ではない。幻にしがみつく寄生虫だ」と言われてしまったのである。

 

それはあまりに完璧な、壁という表現では収まらないほどの断絶である。

 

だから逢田さんがピアノを失敗して泣き出したアクシデントがあっても、セカンドステップの発表があっても、強要された以上完全なる他人事にすぎず、僕らLV組の声援や感動の叫びも、誰がどんなにどう取り繕っても蠅の羽音以下のものと受け止められてしまうということになった。

 

このリカバリーのきかない、死んでも取り返しのつかないレベルの失敗は、故意に発生したものである。なのでAqoursのメンバーをせめることはできない。

 

だが、僕はもうそれ以降この公演を神戸のLV会場から他人事のように見つめるしかできなかった。残りの時間はあまりにショックで、座ったまま虚空を見つめていた。

 

どうあろうと「現地にいなかったものに人権はない」というのが『ラブライブ!』の見解である、ならばそれを否定することはできない。4000円と手数料とLV会場までの交通費とおよそ半日ぶんの時間を完全に無駄にしてしまったのは自己責任だ。訴えても負ける。「悪いのはお前だ」とみんな僕に言って押さえつけるだろう。

 

そしてアイマスにおける春香さんの名言「後ろの席までちゃんとみえてるからね」が呪いにかわってしまった瞬間を見た後悔。「後ろ」よりも「うしろ」の存在は不在や裏切りと変わらない真理。落選した者に一縷の希望などというものはどこにもないという現実。1stだからこそオブラートにつつまずはっきりストレートにみせてくれたもの。

 

時間と金を無駄にした上で得たもの、その後悔をここに記しておきます。

 

追記:現地に行けなかった人間を排除する思想は、それはそれで、自分たちの元に人がいないことを何より恐れるAqoursらしさというべきなのかもしれない。

ソードアート・オンライン オーディナル・スケール(伊藤智彦)

2/19 

川原礫による原作・テレビシリーズ2作を有する『ソードアート・オンライン』初の劇場映画化作品。当然スタッフ・キャストはテレビシリーズの面子が続投されています。

桃太郎侍』や『木枯らし紋次郎』のような「流浪の凄腕剣士が行く先々で起こる様々な問題を解決する」という、今や古めかしいものとされるストーリーのひな型――『火星のプリンセス』に通じているか――が、VR・AR技術とオンラインゲームというフィールドを借りて魅力的に復活した。いわゆるチート剣士の物語は、実はだいぶ昔から存在したものである。

原作は2001年の秋ごろに執筆が開始されたweb小説。脳神経に接続されたゲームマシン内でプレイヤーが生き残りをかけて戦うというプロットは、同年公開された『名探偵コナン ベイカー街の亡霊』に通じている。このころはインターネットの黎明期で、士郎正宗の原作・および押井守監督の『攻殻機動隊』(とサイバーパンクジャンル)を大衆化させた『マトリックス』の1年半~2年後であった。ちなみに後述の内容にかかわるため記すが、1999年翌年2000年春は『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』が公開された時期である。

 

(以下ネタバレ)
 今回は『ポケモンGO』のムーブメントに通じる社会的見地にもスポットがあてられている。この中で出てくるVRデバイス(作中で「オーグマー:Augma」と呼称される)は、神経系に接続して拡張現実を体感させるデバイスであり、……ここからおもしろいことに、内蔵されている「オーディナル・スケール」というゲームのランキングによって、経産省・大企業から、クーポンやサービスなどの見返りを受けたり、報酬を獲得することができ(作中説明はないが、おそらくそれで生計をたてているものもい)る。それにより、ユーザー同士でハイスコアをとるために、町中のイベントクエストクリアや競争に躍起になっていて、社会的ムーブメントを引き起こしている……中核に悪役がいる。という設定が面白い。

これは、東映アニメーションが制作した『空飛ぶゆうれい船』(日本国内であればAmazon primeで視聴可能。一応『SAO』のTVシリーズも網羅できる)に通じている。黒潮物産というコンツェルンの社長が、企業はおろか政府・マスコミのフィクサーとなり、それらを使って黒幕・ボアの人類を根絶やしにする計画を補助すべく、ヒーロー側の仕業に見せかけて民衆の大量殺戮を行ったり、CMを流して競争をあおり――あの映画では旅行プレゼントの名目でボアジュースなる飲料を大量に飲ませて人間を溶かすという恐ろしい計画に知らず知らずのうちに主人公がジュースを飲みふけったばかりに中毒を起こして……という形で加担していてそれがヒーロー側の危機を引き起こすプロットだった。
この映画は1960年代制作であるが、すでにこの段階でアニメーションに、大企業や政府のテレビや広告を用いた大規模な印象操作に対する警鐘という観点を観客に与える批評性を有していた。それでありながら、60分目をはなさせない優れたエンターテイメントであった。ちなみに若かりし宮崎駿がアニメーターとして参加していて、ゴーレムの戦闘ですでにすさまじい仕事を見せておられたのは説明するまでもないだろう。
ただこの映画はそういう企業の恩恵をめぐる経済競争に飲まれた者たちの愚かさを主題にしてはいない(それでも僕はあのライブ会場にいた人たちとか自己主張のはげしい(吉田尚紀がモデル?)ニュースキャスターのような「大衆側」は死んでくれても特に悲しく思うことはないだろう)。誰でも楽しめるエンターテイメントを志向している。

 

本作のメインプロットは、そうしたところに集まるものの、ディープラーニング集合知による存在の構築である。
一応本作の重村教授の計画については、一例として<humai>という会社の死者を人工知能として復活させる研究がモデルだろう。
(参考・engadget 日本語版「死んだ人を生き返らせる」技術が30年以内に開発されるらしい?【動画】 リンク:http://japanese.engadget.com/2015/12/23/30/
(参考2.How Artificial Intelligence Will Bring Back Dead People To Life Within 30 Years link:http://www.messagetoeagle.com/how-artificial-intelligence-will-bring-back-dead-people-to-life-within-30-years/
しかし一応ナーヴギアの死因については脳みそが焼かれるという設定があるため、SAOプレイヤーが死んだ場合このテを使うことは不可能なので、人々の記憶からスキャンとディープラーニングを行い、存在を構築する……というのであるが、そもそも「そんな人がいたことすら知らない」という場合どうなのだろう(僕だって道端のミュージシャンをよく覚えてはいないし)。
だが、ヒトは死の間際に、これまでの記憶がフラッシュバックするという仮説がある。その記憶を頼りにしようと感じた(あるいはプロットでその仮説を用いている)のだろう。
であれば、今わの際のフラッシュバックからユナの記録を探り出せるのではないか。重村教授とエイジには、SAO内でユナの弾き語りを聞いていた多くの者がいる、という確信をもって行動に及んでいる。
彼らが記録集を開いて「僕は出てこない/覚えてもらえない」ということに固執するのは彼ら自身のプライドによるものというより、認知されていることが自らや近親者の生死にかかわる状況に置かれたからである。

私見ながら、ある社会的問題について異議申し立てするときの手順が、「お役所へ申告する」ところの一つ前に、「SNSで炎上させる」というものが加えられつつある。まず世論で人を動かさなければ確度を持った「声」にならないので役所が全く動いてくれなくなったため、この状況が確立されつつある。 もちろん、アフィリエイターやYoutuberがアクセス数に基づいた利益を増収させるために時に破壊活動や誹謗中傷も辞さない状況も。
……という世の中に符合するような、現実的な問題が見え隠れしたように筆者には思えた。SFやファンタジーの醍醐味の一つ。

こぼれ話であるが、本作を手掛けた伊藤智彦監督(本作が劇場アニメ監督デビューとなる)は、かつてマッドハウスという会社に勤めておられた。彼は『時をかける少女』(2006)『サマーウォーズ』(2009・いずれも細田守監督作品)で、助監督を務めていらっしゃった。細田守映画の中核を最前線で務めたといえる彼が、氏の影響を受けていないわけがない。

であれば、ネットのからむ危機をゲーム機器を使って解決するというプロット、バイクの二人(三人)乗り、プレゼント(指輪←→髪飾り)、スグの「島根にパソコンがない(転じてそこから決戦に駆けつける)」、あまりに強大なラスボス、ラストバトルの剣を一振りしてSAOのボスモンスターを蹴散らすキリトの一騎当千ぶりetc...は、間違いなく『ぼくらのウォーゲーム』の熱いオマージュとみて問題はないはず。(なのでもう一度劇場に戻られる際、ご覧になってから行くことを推奨)。ちなみにエンド・クレジットの右でそれぞれ別の原画マンが描いた主要登場人物がインサートされるレイアウトまで踏襲されている。僕はこれを伊藤監督自身(と川原礫氏)の細田監督(やこれまでかかわった作品のスタッフ達)に対する謝辞であると解釈しました。

ちなみに先ほど『ポケモンGO』をちらっと話題にだしましたが、『ポケモン』劇場版1作目の『ミュウツーの逆襲』も、娘を復活させようとするもかなわぬ夢と終る教授・その娘がらみのトラウマを抱えて闇落ちした敵役・そして演ずるは舞台俳優(SAO:エイジ:井上芳雄 重村教授:鹿賀丈史 ←→ ポケモンミュウツー市村正親)という共通点もあったりとか思い出したり。あんまり関係はなさそうですが。

今やってる映画では最も面白い部類の一本でしょう。オススメ……したいんだけどなあ。公式(アニプレ・角川・アスキー)がまさしく本作で異議申し立てしてたことそのまんまなことやらかしてなあ。鷲崎健さんを切り捨ててどこぞの戸田奈津子みたいな糞商売やってる馬の骨アナウンサーを使うなど。

2/22 どうでもいい追記

名匠・鈴木清順監督が亡くなられた。清順監督の遺作が2005年の『オペレッタ狸御伝』、その一つ前が1999年の『ピストルオペラ』である。このラスト2本の音響周りを手掛けたのが、本作の音響監督も手掛ける岩浪美和音響監督であった。また清順監督が生前『ルパン三世』を手掛けておられ、それがアニメーターに影響を与えていることは周知の事実で、本作のアニメーターたちにおいても例外はないはず。
そして、来る2/24に日本公開を控える『ラ・ラ・ランド』において、デイミアン・チャゼル監督が鈴木清順監督の『東京流れ者』からの影響をお認めになった。

この2本はしばらく各劇場の最大箱を占拠し続ける作品となるでしょうが、清順の影響を濃く受けた2作品がいま社会を席巻しているのは、因果なものです。

ラブライブ!サンシャイン!! #8 『くやしくないの?』

夏コミの新刊を見知らぬ人に1部しか受け取ってもらえなかった人が通りますよ。

 

ライバル:Saint Snowをクローズアップしつつも「その道の最強」として描くのではなく、実力は上でもトップならざる者として描く。
「最高だと言われたいよ、真剣だよ」

梨子「この町(東京)、1300万も人が住んでいるのよ」
地元の優しさと都会の厳しさの対比(WUGもどシビアな形でやってたけど)

千歌「本戦に出場している人たちなんだから入賞できなくて当たり前」
曜「入賞すらしていなかった」
→「お客さんの投票で入賞グループ決めたでしょ」――さらに最下位かつ支持ゼロという追い打ち。

スクールアイドルは名前にマカロンを入れるのが好き?(名前にマカロンが入ってるグループが11位までに2つ)
入賞者リストの1位と2位を映さなかったのは伏線?

もうすこしで入賞だったSaint Snow「いいパフォーマンスだった。でもラブライブに出るのはあきらめたほうがいい」「馬鹿にしないで」
前々回のPV撮影からの、(東京からやってきた)梨子に視点を与えられて初めて郷里の魅力に気づく、てとこに出ていた兆候。

千歌「努力して頑張って呼ばれただけですごいこと、胸を張っていいと思う」曜「悔しくないの?」

ダイヤ「おかえりなさい、よく頑張ったわね」これまでとは一転、暖かい声で傷心のルビィを抱きしめる。本当に妹を愛してる。通過儀礼を受けた者への激励でもある。
ダイヤ「スクールアイドルの爆発的な人気の上昇により、レベルの向上を生んだ」
現実のあらゆる分野のあらゆる場所で起きていること(アイドルアニメも多例にもれず)。本家の忘れ物。

3年生の過去。フィルターのかかった画面。いまの千歌のような面持ちで出発したダイヤ。「なにも歌えなかった」

「いつかこうなる(自分たちの成果を根底から否定され挫折はおろかユニットが友情もろとも分解する)と思っていたから」

マリの抱擁をすげなく断る果南。果南「誰も傷つかずにすむのが一番」マリ「失ったかけがえのないあの時を取り戻したい」
3年生「過去にとらわれる」というテーマ。後輩に引導を渡すがことごとくぎこちなさすぎるというズレ。その原因。

曜が昔の泣いてる自分を千歌に引っ張られる写真を見つめている。
電車の「悔しくないの?」というのは本心に気が付いた上で、たぶん千歌の本音を引き出したかったというのが。

千歌「何か見えないかなって」「何も見えなかった。だから思った。続けなきゃって」
「このまま続けても0のままなのか1になるのか、わからない」

千歌「悔しいにきまってるじゃん!」
あくまでも千歌のモチベーションは「(スクールアイドルになって)輝きたい」であって、「廃校阻止」じゃない。
例えばマンガ書いても面白いことやっても誰にも振り向いてもらえない。悔しい。誰にでもあることですね。俺だってあまりにつらくなってブログの夏コミで新刊だすよーって記事消したもん。

花田脚本は良くも悪くもコミカル志向(だからシリアスやるたびに失敗する)なんですが『響け!ユーフォニアム』の久美子の心境の変化の過程を描いて大成功したのを機に、挫折を描くことが億劫でなくなった気がします。

「0を100にすることは無理、でも1にすることはできるかもしれない」
Aquorsのアイデンティティを本当の意味で確立させること。この物語のテーマが固まった。「じゃあもっと努力すればいいよね」だけでは絶対に解決できない難しいテーマだけどどう処理するのだろう。

雨が降って光が差し込む、インド映画ばりの天候を駆使したフォトジェニックなシーン。
雲間から差し込む日の光は、2話に続く「神様の象徴」ですね。いつも登場人物の思いを隠す象徴たる「暗闇」は天照が引きこもった穴の象徴ですね。