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Kokone-works

好き放題に、「お酒を飲んだ勢いで」。 サークル活動、はじめました。「ここだけネバーランド」というサークルの主催です。 

ラブライブ!The School Idol Movie(京極尚彦)

(9/2 前半に一部・後半追記及び名称のミスを修正しました。失礼いたしました。)

※この劇場版を神とあがめる方はこの記事をそっ閉じされることをお勧めします。今回はかなり酷評しています。念のため私の身の上を説明しておくと、TVシリーズ1期をリアルタイム視聴してるうちにラブライブ!にはまっていった人間で、本作はつごう12枚前売を買う程度に楽しみに待ち、4th以降のライブに参戦し、この記事を書いてなお、6thを心の底から楽しみにしている『ラブライブ!』、μ’sファンです(いろいろ兼任はしてるけど)。そのうえで、いや、だからこそ書きます。国内全ての映画評論家が、興収30億にとどきそうと言われている作品であるにもかかわらず本作に見向きもしない態度を取ることを選択した以上、書かざるを得ないでしょう。出来に関してもそうだけど、世間での態度が「ラブライバー/アニオタってキモチワルイ」というバイアスがかかった状況から、評す側も評される側もなにもしようとしない人々ばかりって状況が悲しい。この文章をしたためるための燃料はそれだ。『エピソードI,II,III』を見た後の気持ちがまたぶり返すとはおもわなかった。 

もうさんざ配られた特典もほぼ終了してますし、その特典の回収もラブライバーの皆さんは大方すんだろうし、『ラブライブ!』を知らない人で「今からこれを見よう」と思う人もいなさそうだし、もうこれ以上ネタバレに配慮する必要はなさそうなのでいろいろと書きます。何度かわけるかも。

9/4 続きを読むを押すと開く仕様にしました。

 

(その1・前半:『μ's、ニューヨークへ行く』編 雑感)

ファンムービーの果たす役回りは通常の映画とはちょっと違ってて、ファン(私)をストーリーやキャラクターのかわいさに耽溺させる、という条件は通常の映画と同じかもしれないが、目指す方向性としては、映画的な要素を排除してでも、ファン(私)、そしてスタッフ・キャストが耽溺するキャラクターに、「幸せを与えること」(あるいは成長させること)だと思う。その到達点として、映画技術の巧拙を蚊帳の外においてでも、最高のストーリーを仕立て上げ、きらびやかな衣装を着せ、キャラクターをたてるのだ。いままで本当にありがとう、と感謝の意もこめて(『映画 けいおん!』や『なのは1st、2nd』、『THE IDOLM@STER MOVIE』、『たまゆら 卒業写真』はちゃんとそれをやっていた)。そういう描き方でも、そのタイトルやキャラクターに、そしてファンに幸せを与えることができる。ただストーリーさえしっかりしていれば。ただキャラクターがテレビシリーズのままに銀幕の中に生きていれば。 ● こういうまどろっこしい出だしから始めた理由は、もう皆様お気づきのとおりだろう。それがまったくできていない。 前半のストーリーのあらまし。スクールアイドルについての取材を受けるためにNYに行くことになったμ'sたちは、ライブをするにあたって、場所を自分たちで決めるように向こうのテレビ局(劇中には出てこない)に言われる。各所をまわりまわっている最中、穂乃果が地下鉄の改札トラブルにまきこまれ、ホテルと真逆の電車に乗り込んでしまい(この電車はブロードウェイへと向かう)、8人とはぐれてしまう。という話。……なんだが、第8週に配られた特典「旅のしおり」には、こういう記述がある。「持ち物内容:ケータイ電話」(1ページ目 大切!旅の持ち物リストより抜粋)。ご丁寧にマーカーまでひかれてある(「マーカーの所は大事!絶対忘れないこと!」とも)。映画後半には穂乃果のスマホが(A-RISEからの着信で)登場する。確かに穂乃花のスマホはこの映画後半になってのシーンで初登場するのだが、それは改札で遭難したときに穂乃果が電話をかけなかったエクスキューズになっていない。ここに必要なのは、穂乃果がスマホを家に忘れた、という描写や、スマホの電池が切れていた、という描写であるわけだが、コンテにはあって監督判断でカットしたのか知らないけど、ストーリー上絶対に切ってはならない描写だろう。遭難した先で穂乃果の未来像(『2001年宇宙の旅』のモノリス役回り)であろう女性シンガーを登場させるためにむりくり脚本の都合でそうした、としか思えない。しかもμ'sメンバーにいたっては穂乃果がホテルに帰ってきたとき(事前にすり合わせたように)ホテルの入り口前に棒立ちして待っていた始末。そして――映画全体の悪癖だが、穂乃果ばかりを描いてほかのキャラをないがしろにしているため――穂乃果を探す描写はない。だから海未の涙ながらの「どれだけさがしたと思ってるんですか」という台詞は、いくら三森すずこさんがどんなに声帯が切れるほど演技をがんばったとしても、海未が実際に映画に映らないところでNY中を歩き回っていたのだとしても、重みがまったく伝わらない。NY到着初夜のレストランで「穂乃果の言うことは一切信じません」と悪態をつかせているならなおさらだ。これでは駄々をこねてるだけにしか見えなくなってしまう(前半にタクシーで遭難したのが前ふりだってんなら、観客ナメるんじゃねえぞ)。いや、「ホテルの外を一歩出たこと」=海未の言った「どれだけ」って話もあり得るかも知らんが、それを大仰に描いたところで、海未ちゃんの“がんばり”に対する冒涜だろう。今回修学旅行のババ抜き雪辱戦が1分ぐらい尺取って挿入されてるけど、あれですか?ババ抜きで変顔するのが海未のキャラクターの本質なんですか? ● 今回凛ちゃんが語尾に「にゃー」をよくつけるのだけど、TVシリーズ1期では、決してそんなキャラクターではなかった。しかも、この「にゃー」、本音の時だけに語尾につけて言う、凛の感情の機微として機能していたはずである(だから自室の暗がりでもの言わず微妙な顔でドレスを着合わせするシーンがせつなかったんじゃないの?)。そしてこの「にゃー」、『シンデレラガールズ』のみくにゃんと違ってアイドルを始めるにあたってのキャラ付ではないのだ。なにせ1期では最後まで抑制されていたのだから。語尾に「にゃー」をしきりに付け始めたのは2期からだが、1話からフルスロットルだったので、ウェディングドレスを着て(=女の子になれたことで)吹っ切れたわけではない。要するに、「にゃー」って言わせることが凛のアイデンティティなんでしょ?と作り手が考えてるようにしか思えないのだ。ふざけるな!!!!!!!!!!! ● 観客がキャラクターの行動パターンに当てはめて間隙を埋めて考えてくれるだろう、と思っているのだろうが、そのわりに観客を信用していないのは、説明過多な台詞からも明らかだ。朝練でのことりちゃん、公園の入り口で「大都会の真ん中にこーんな大きな公園があるなんてステキー!」じゃねえよ。いくら耳触りが良くて心地よい気分にさせてくれることりちゃん(内田彩さん)の声で、海未ちゃんを呼び込むために発したという理由がある台詞とはいえ、私ゃ見てて悲しくなったよ……。そしてこの自分の置かれている状況を口で言わせるの、映画技法としては最低のものなのだ。キャラクター性の犠牲が映画の完成度に貢献することもままあるけど、本作はそちらの路線も捨てている。そのクセホテルについては「おっきなホテルー」以外に説明しない。このメタ表現、トリアーとかの映画のつもりですか? ● ところでお遊びとしてことうみりんが遭難するのホテルの名前が「Sunrise Hotel」穂乃果の書き間違えた名前というのは「Sunsine」だったりするのだろうか。 ● あと変則スリーマンセルなんですが、1年組・2年組・3年組以外は、「まだやってなかったよね」以上の意味が感じられない。だから(新宿舞台挨拶で監督がおっしゃった「ほのにこえりのホテルの部屋がハネムーン仕様なのは室田雄平作画監督のロケ時の実体験」という面白要素があんまり笑いとして活きてこないのである。初日ふくめ何度かリピートしてて、劇場ではくすりとも笑いが起こらなかったけど、コメディリリーフのにこで笑いが取れないってどうなのよ。ところで、あの泥ときゅうりパック、いつとれたの?) ● 100分の尺の映画に、9人を立てろ、というのは難しいからそこはあきらめる……と言いたいところだけど、今年の頭に『KANO 1931海の向こうの甲子園』という映画を見ていると、正直不可能ではなかったんじゃないかなあと思ってしまう。あちらの映画は3時間のうち前半100分かけて、なんの土台もバックグラウンドもないチームが甲子園の大舞台に立つにふさわしい人間になるまでの過程を、監督と選手一人一人、丹念に、丁寧に描き切ってる。 ● ただ、この映画で好きな部分もあって、TVシリーズ通して決して1コマ作画を用いない(『逆襲のシャア』もそうだった)ことと、『ティファニーで朝食を』『カサブランカ』へのレファレンスはそんな部分である。『ティファニーで朝食を』は、さまざまな金持ちを手玉にとる女が、石油王との婚約を破棄して、かつて知り合った帰還兵の男のもとへと走る、という映画で、『カサブランカ』は二次大戦でドイツに占領されつつあったカサブランカの地で恋煩いの末再会した男女が、共に亡命を図るラブストーリーである(説明足りてないと思うので別記事立てたほうがいいかな?)。「やりたいことは」というラブライブ!アニメに通底するテーマを最後まで口にせず、他の映画やメタ表現に託したことは、評価されるべきだろう。あと『ティファニーで朝食を』『カサブランカ』は折角穂乃果ちゃんが体張って紹介してくれた映画なので、あと名作なので、この2本はほのキチの皆様だけでなく、さまざまな方におすすめします。 ● ここまで書いて更に言うけど、……(友達誘って何度か見に行った上でいうのもなんだけど)この映画は映画評論家の皆様はとおるべき道だと思ってるのだが、一般観客の、ラブライバー……いや、100歩譲ってテレビシリーズ視聴者の皆様以外には、(前売を余らせている友達に誘われたなら是非とも行かれることをおすすめするが、)自腹を切ってご覧になることはお勧めできない。出来不出来の問題以前に、まず事前知識としてテレビシリーズを見ておく必要がある。そして、『ガンダムUC』や『TIGER & BUNNY』にあった前説が、この映画にはないのだ。実はこの段階で「ラブライバー以外はこなくていいよ」と作り手が言っている。でも私の願いとしては、ラブライバーのマスかきのネタで満足するのではなく、クリティシズムに堪えうる、普段アニメなんて馬鹿にして見ないような人間に、「『ラブライブ!』すげー、なめてました。すみませんでした」と言わせるような作品を作る、ぐらいの意気込みが見たかったです。こう書いたのは、『ラブライブ!』はそれが十分可能――なぜなら、2期5話「新しいわたし」を生み出したのだから――なタイトルだったからです。 ● この映画にはプロの評論家の洗礼(ラブライバーに目もくれず、徹底的に叩きのめす評論家(批評家じゃないよ。評論家だよ)のレビュー)が必要だったけど、もう宇多丸氏さえ無視したのでそれがかないそうにない今、アニメの行く末も、映画評論家たちの態度と文芸における映画評論の行く末も望み薄だろう。アニオタも映画ファンとやらも「見たいものしか見ない」のはどちらも同じだったってことだ。駄作は意図的に避けるという向きであっても、本作は別に(一山いくらの俺がここでどんなことを書こうが)評価が悪いというわけでもない。周りのラブライバーはみんな泣いたといい、褒めているのだから。また本作には、「邦画の数多くが失敗してきたミュージカル映画を作ろう」というイノベーティブな意思もしっかり感じられる。いくつかのナンバーは――特にクライマックスは、踊りだしたくなるような躍動感あふれる仕上がりになっている。俺はここに酷評を(μ'sへの裏切りのような行為にに腹を立てて)書いたが、それでも本作は捨て置くに値するような、完全なる駄作ではないのだ。あと、この姿勢、公開当時『カリオストロの城』を褒めていたのが深沢哲也先生だけだった70年代から何も変わってないってことだ。『オトナ帝国の逆襲』を褒めていた向きにかこつけて後から(m@stervisionや田口ランディなどの保証を得たからなどという姿勢を得て)見に行くという行為とその本質にどういう違いがある?それは小池一夫先生が絶賛したから『まどか☆マギカ』見ましたってはてな村のアルファの映画レビュアー共(揃いも揃って「ジャンル差別しないでしょー、見る目あるでしょー」と言いたげな文章も腹立たしい)も、この点に関してはみなさんの嫌ってる(俺も嫌いな)前田有一と同じだ。百歩譲って、見ろと言わないにしても、よく映画ファンが映画を見ない人間を批判する折、多くの人間の口上をまねて『ケータイ小説映画』、今どきのアニメは内に閉じこもったガラパゴスである、というのがあるけど、正直それこそ今どきのすべての映画のみならずあらゆる評論家・批評家を名乗る連中は、自分たちのテリトリーに触れない人間(たとえて言うなら、わたなべりんたろう氏の『スコット・ピルグリム』公開時に発した「いまどきの若者は映画を見ない」と十把一絡げに(映画ファンを含めた)「若者」を攻撃する論評とか)を叩けたもんじゃない。だって彼らがどれだけ批判対象の作品に触れている? 前述の人々の姿勢から言わせていただければ、同じ穴のムジナというやつだ。もう事の善悪を定義できる人間はいない(当然俺も含めて)。評論の俎上において、これが実態なのだ。「今が最高」大いに結構だ。でもあとが辛いよ。 ● まあおかげで映画コーナーにあるアニメムックなんて買わずに済むんだから、それはそれで楽なんだけど ● 私が怒ってる理由は映画の内容以上に、上記に記したようにμ'sメンバーに対して冒涜してるともとれるような描写が差し挟まれていることに対してである。キャラムービーとしては絶対にやってはならないことじゃなかったのか?実写『デビルマン』が叩かれたのは原作に忠実に、とか言って「サタンだからな」「デーモン同士は殺しあわねーはずじゃねーか」「私は魔女よ→(20秒後)→私は魔女じゃない」をやっちゃったからじゃないの?(あれはあれで一周回って笑えるレベルに到達してるけど) ● ちなみにここまで書いてるけど、ラブライブ!は本年度ワースト映画ではないです。今年はもっとひどい映画を2本ほど劇場で見ているので。

(9/2追記)
劇場版のBD発売が12/15に決定し、BDに抽選券封入で6thライブの目途も立ったようですね。私ですか?こんな文章書いてますけど、ライブ行くために特装限定盤は多々買いするでしょう(会場が西武ドーム以下なら落選覚悟)。何度も言いますがμ's大好きですし、『ラブライブ!』自体が嫌いってわけじゃないので……(それってこういう映画を撲滅させたいならその意思に反する行為ではないだろうか……いやいや、5thライブBDでなく映画BDに抽選券付けたって段階でバンビジュ側が映画の出来に自信喪失してるってことじゃないのかブツブツ……)。

(その2・後半 『逆襲の穂乃果』編)
 NYライブが終わると、唐突に帰りの飛行機に乗っている穂乃果が、窓際のことりちゃんの上を通り、何故か窓を開けて雲の平原を眺めるシーンがある。そう、ロクに映画はおろかアニメすら見ていないウンコ共に「『けいおん!』のパクリ」、と言われたあのシーンである(この映画の話を考えた奴ら以上にずっとずっと腹立たしい、産業廃棄物以下の存在である)。 ● この雲を眺めるシーン、一応意味はあるのだ。OPクレジットで出発前に空を眺める穂乃果(と8人)。「天上」たるNYーー秋葉。つまり故郷に似た町ーーでライブをやるという儀礼を経て、本当に「雲の上」から真に「女神」として地上に降り立つ。だからこそ彼女らは、「地上」たる帰国後の日本で崇め奉られる存在となっているのだ。 ● ……そこまではいいんだが、1期でかよちん「女性のファンも増えている」って言ってた当たり、ラブライブ!の主要ファン層って男性ってイメージがあったんだが、空港でμ'sにサインねだってるのが見事に女子高生しかいなかったのは、まあこの『ラブライブ!』に――真姫パパや穂乃果パパに代表されるようにたとえメンバーの親であっても――男性キャラ排除(顔は映らない)という作風が貫かれている(きれいなものしかみせない)のだとしても、なら何故空港のモブでスマホいじってる男の顔を映す?(ご丁寧に「μ'sを応援しよう」ってモニターの横でカップルまで描写されているぞ。どうみてもレズの人たちには見えない形で) ● 友人と話してたことなんだけど、μ'sやスクールアイドルの肖像権てどうなってるんだろうな。だってスクールアイドル活動って個人個人で始めてる描写が挿入されているのに(たとえば穂乃果たちが始めるにあたっても自主的に活動を始めた感じで、別にグッズ化にあたり自分の姿の使用許可を出した描写はないし、雪穂と亜里沙に関してもおなじだった)。そして、後半で穂乃果「おこづかいの交渉してくる!」、「真姫ちゃん、電車賃 貸して!」とあったけど、それってつまりμ'sメンバーにグッズの収益が結局最後まで入ってきてなかったってことだろう。なんなんだよこの運営!勝手に女子高生売り物にして良い飯食ってマブいスケ抱いてる下種野郎どもってことじゃん!それともあれですか?金の問題はことりママが裏でラブライブ事務局から金もらってピンハネしてるんですか?クズ共が!死ね!!!! っていうか、アニメスタッフは必要な説明をしろ、説明を!!!!!! まだ書くけど、こいつら2期のラブライブ大会(10話)で交通マヒ起すレベルの大雪の中で「屋外」での祭事敢行してるんだよ。何より大事な今後の運営にかかわる安全管理とかどうなってるの?スクールアイドルが怪我したり死んだりするとか考えられないぐらい馬鹿なのかこいつら?(「4thの大雪の再現」とかいう世迷い事はストーリー詰めてから言え。あと大雪で4thを実行できたのはたまアリが「屋内」だったからだ)ここまでくるとこの物語のハッピーエンドってのはμ's解散じゃなくてラブライブ運営メンバー全員をできるかぎり残虐な方法でぶっ殺すことだ。しかも最後まで姿を現さない一番のクズ野郎) かようにこういうガバガバな設定のつめ方するから作品に入り込めないんだよ。 ● で、本作のストーリー後半部(最初に語れよ!>俺)。NYから帰っていたμ'sは押しも押されぬ人気者になっていたのだが、NYでのライブが最後と思っていたところに、μ'sが自身たちの解散を伝え忘れていたことで、次のライブを周囲から期待されてしまう。アイドル研究部室に集まったμ'sメンバーは、真姫が自分の心に区切りをつけるために書いていた曲で、解散前に、もういちどだけ最後のライブに臨むことを決意する。そこにことりママが「ドーム大会やりたいからμ'sは卒業後もパンダとして活動を続けて俺たちに奉仕しろ(要約)」というラブライブ事務局の言伝にやってくる。もちろんμ'sは意見が割れて、穂乃果は延々悩む。どうするか、という話。 ● で、まあ私としてはこういう感じにしか受け取れないから、「やりたいこと」以前にそんな不義理きわまりない要求つっぱねろよな、と思ってしまうのだ。真姫「ラブライブのおかげでここ(廃校阻止)まで来られたのは確かだけど、私たちがそこまでする必要がある?」ってまさしくその通りでさ。1日2日で広告代理店に根回しして、印刷所脅して、とかいろいろ仕掛けて大金かけて、でかでかと(倫理的にいろいろアウトな)ポスター張り出すのはあいつらの勝手でさ、エリチが妙な責任感もつの、どうしてよ?と思ってしまうのだ。この映画のエリチ、主体性がまったくなさ過ぎて、本当に1期で生徒会長やってた人と同一人物なのか疑わしい部分があるゾ……。 ● で、穂乃果がベッドで枕に顔をうずめて寝っころがってる時にA-RISEの綺羅ツバサさんからの着信。呼び出されてパジャマ姿のままUTXに行ったらリムジン(シャンパンもあるよ!)に乗ってドライブ……なんだけど、本当にこれ、金の動きどうなってるんだよ!!!!!!一応リムジン買ってお抱えドライバー雇えるほどの部費があてがわれてるんだよな(A-RISEメンバーの家庭の私物の可能性はあるとしても)。ってことは個人に対する経済効果とか儲けとかが確実に存在するんだよな。本当にμ'sや音乃木坂の収益どうなってるの?μ'sが生み出した金の行き先が彼女らのおこづかいや部費でなければどこに消えたの? あんじゅ「(A-RISEを)マネジメントしてくれるチームよ」ってことで名刺を差し出したってことはそれなりのプロダクションに雇われて「プロのアイドルとして活動する」ってことなんだろうけど、ホントにどういう世界なんだよこれ……。(『アイカツ!』ならまだスクールアイドルとかじゃなくて、クリィミーマミみたいなリアル芸能活動と結びついてるからいいんだけどさ)ちなみにその昔からバンドコンテストってのはあってインディーズ→メジャーってコースはたしかにある(サザンオールスターズBUMP OF CHICKEN中島みゆきさんなんてまさしくその出身だし)けどさ……ならTVシリーズ本編にスクールアイドルから地下なりメジャーアイドルなりアーティストになった人とか、一組ぐらい出しておけばよかったんじゃん。それを劇場版の女性シンガーの立ち位置に配置してさ……。 ● 穂乃果が道に迷った時に現れる女性シンガー(未来の穂乃果)。アネモネの花。結局これはマクガフィンであるから、どうこう言う気はないです。マクガフィン高山みなみさん使うってこういうところで贅沢やるよなあ……。(なお、マクガフィンはちゃんとした映画技法であるが、必要な設定を明かさないことの逃げ口じゃないから、万一関係者・スタッフのお目通りをいただけるこの上ない名誉に与れているのならば、『ラブライブ!』の設定をつめなかったことに対しての批判はきっちり受け止めてほしいです) アバンタイトルの水たまりがここで再び登場する。地面=地図を覆いかつ自分を映す鏡にみたてて迷い道のメタファーとするのは良いと思う。 ● そして、マイクケースを横に、なにかを決意した穂乃果。「学校のためにスクールアイドルをはじめたけれど……」「大好きだったから」「最高に楽しかったから」 ● μ's解散、ドーム大会実現の両方を勝ち取るために「スクールアイドルがいかに素敵かを伝えるライブをしよう」ということで、ここにきてやっとラブライブの世界が動き出すのか!残りの上映時間30分あるかないかでどうするのか!? ● ということで、「スクールアイドルの大群でアキバの路上ジャックしてみんなで踊ろうぜ」というアイデアを実行に移そうとする。「今から間に合うの!?」ってエリチも言ったけど、実際警察とかに公道の使用許可をおろさないといけない。1日何千台と車が通過する大通りを封鎖するわけだし。しかもその苦労は並大抵のものではない。しかし、その部分は全く描かれず、メンバー集めもとんとん拍子に進んでいくから、ピンチになってクライマックスでやっと援軍が現れる『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』のミナス・ティリスの戦いのような感動が全然ない。こういうのってさ、周囲の反対や反感を押しのけてだれも味方がいなくなって、本当に追い詰められた時に初めて呼び込める感動じゃないの? 100分で処理できるシナリオとは思えない(実際に処理できてない)から前後編に分けるとかもう少し尺とってもよかったかもしれない。というか、まさしく「スクールアイドルがいかに素敵か」を伝えることを放棄してきたのはパトロンやこの映画のスタッフたちでさ、それで感動させようとかいい度胸してるじゃないの。 ● で、さっきの勝負の話。ほのえりまきにたてつくスクールアイドル「勝ったら出てあげるわ」っていうけど、スクールアイドルってアニメが始まってから2年半経った今でも何をもって勝ち負けとするのか俺にはわからないんだけど、ダンスとは言ってないんだよな。『クローズ』みたいなガチの殴り合いの喧嘩勝負なら見てみたかった感ある。『進撃の巨人』のミカサや『修羅雪姫』の梶芽衣子みたいな「血塗れの女神」ってモチーフ大好きだし。 μ'sに反骨精神持ってる人を出したのは本当によかった。すぐ消えちゃったけど。てゆうかそもそも、スポーツ映画や戦争映画なら共有知識にかまけてある程度逃げをうてるけど、スクールアイドルって現実に存在しないこのアニメの独自設定だろ。勝負みたいな話があるけど、仮にスポーツととるならば、まず定義=ルールがあって、それにちなんだ戦略があって、自分と相手の動きがあって、それで初めて勝負ってのが成り立つものだろ。最後まで個人しか描写されねえって、ヤンキーの喧嘩じゃねーんだろうが!? TVシリーズに対する不満でもあるが、「ラブライブ!優勝」とか「ライバル」とかいう言葉をカタルシスにするならまずそういう外堀を確実にうめなきゃダメだろ。 ● で、穂乃果がUTXの前で「手作りのライブです」ってスクールアイドルたちによびかけて、ビラまきまでしてるんだけど、空港とか穂むらに詰めかけてたファンの子たちどこいったの(ちゃっかりまぎれてる可能性はあるけど)?警備とかどうなってるの?(最後のライブがとんとん拍子で大成功しちゃうせいで、みんな「μ'sしか見てない」って風刺にはなってないからなあ……) ちなみにその日の夕方に飾りつけを終わらせているってことは少なくとも2日間は、1日何千台と車が通る秋葉の大通りをジャックしているわけだ。だからラブライブの経済効果どれだけなのよ。オリンピックかよ。国道まる2日ジャックして採算獲れるだけの金があるならA-RISE、μ's抜きのドーム大会なんてお茶の子さいさい(死語)だろ。いや、『太陽を盗んだ男』のバスジャックで皇居の門前につっこむみたいなゲリラです、という設定なら大歓迎だけど、ステージまで設置されてるからなあ……。A-RISEが裏金ばらまいたのかも知らんが、一応大人も総出で動いたってことなんだろう。ならその動きを見せないと(作中に描かれる「がんばってねー」「応援してるわ―」、程度ではなく、穂乃果たちのやったことに感銘を受けて、2期のラストの音乃木坂メンバーみたくなにか恩返ししてやろう的な流れで)。特に俺みたいに作中のラブライブ運営事務局の行為を人身売買と思っているような人間に対しては。(ぶっちゃけ警察買収できるだけの金が動くならドームの事務局の山吹色のお菓子に回せばいいんだから、この案は却下かな。買収って書くのは国道封鎖には途方もない労力が裂かれるので、はっきり言って伝統的な球団のパレードとか都とか府が催す伝統あるマラソン大会とか、都や府がバックグラウンドについてるようなそういうレベルの催しでなければ実現不可能なのだ(それでも準備に数か月や年単位はかかるうえ、封鎖できるのは一日のうちのわずかな時間だろう)。ラブライブ!自体にそれだけの影響力があるなら、そもそもドーム大会やるのに苦労せんだろって話。ラブライブ!にはなくて、μ's・A-RISEにそれを実行するだけの影響力があったてのかも知らんけど。この辺に関しては私もよく知らないので、ツッコミお待ちしております) ● この「いつだって飛べる」の後に秋葉の大通りにスクールアイドルたちが集まってるの、これ、この映画の後半が『逆襲のシャア』のストーリーラインを意図的に踏襲しているんだろうな。連邦、ジオン関わらず、名もなき兵士たちが落ちるアクシズをモビルスーツでせき止めようとするシーン。ならば連邦とジオンの確執がごとし描写や、アクシズが地球に落ちる=ピンチをもうすこし明確に描写して「μ'sにだけいい思いはさせませんよ」って流れで気持ちよく泣かせてほしかった。だってあの催しは、μ'sだけでなく名もなきスクールアイドル達の未来そのものでもあるじゃないか。 ● だけどラストは、そういう無茶苦茶な設定をおしのけてダイナミズムのあるダンスシーンを実現できてはいるし、この『SUNNY DAY SONG』を見るためだけに何も知らない人が90分近く劇場に居残った甲斐はあると言える……だろう。私はサビの振付覚えました。6thの準備は万全です。 ● 集合写真。カメラマンはのんたん。「映画のなかのカメラ」は、ひきこもりが外に出るモチーフだ(例:『アメリ』)。のんたんにとっても、そういう意味がある。ここだけは泣かせるんだよ。そこに笑い声のフェードアウト。切ない。キャラの魅力がここで初めて活かされている気がする。そして、卒業後、μ'sメンバー去りぬ音乃木坂で雪歩と亜里沙がアイドル研究部で、μ'sの伝説を語るのだけど、この亜里沙のトーンが1期から大人びてる(佐倉綾音さん)のがすんげーいいのよ。すばらしいのよ。本筋がどんなものでもキャラの魅力や時間の経過を感じさせる泣かせる演技なのよ。最後だけいい感じで締めてるのよ。主演から端役までの声優さんみんな、頑張ってるのよ。でもな、だからこそ彼女らの演技が無意味にならないようにストーリーに気を遣ってほしいのよね。 ● ラストライブ。僕たちは一つの光。μ'sそれぞれの未来を歌に託す。あれμ's卒業前にドームライブ間に合わせたって説があるけどはたしてどうなんだろう。で、このラストライブ、これを思い出した。『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』時に愛は。


Utena dance - YouTube

ラブライブ!のほうは薔薇(愛)の花、ではなくアネモネと各キャラにあてがった花びら。花の種類に疎いので調べきれてないのが悔やまれる。BD買ったときに確かめる。 ● あと、ダンスシーンなんだけど、原画パートやフィルムの特典を見込むなら顔のドアップが多いのはしょうがないといえ、ダンスシーンの命はステップだろう。足の動きだろう。ビョークの曲の魅力に寄りかかるだけの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なんぞにかぶれず、『オーム・シャンティ・オーム』『俺がそばにいるから』とかのインド映画参考にすればよかったのに。そのインド映画がごとく挿入されるダンスナンバーパートは、6曲全て歌詞も場面の雰囲気に合った良いものだと思う。ステップをあまり見せてくれない、という不満だけ。

(このページでトリアーの映画クサしまくってるけど、『キングダム』『エレメント・オブ・クライム』『ドッグヴィル』は大好きです)

 

その3 総括……の簡易版

 そもそも私が『ラブライブ!』で見たかったものって、μ'sをはじめとする音乃木坂学園のメンツ、A-RISEをはじめとするスクールアイドルたちそのもの、というよりは、彼女たちがアイドル活動や、μ'sに勇気をもらった人物たちが、助け合い、夢を成し遂げ、アイドル活動を通じて何かをつかんで終わる、そしてその一挙手一投足に「俺も底辺でくすぶってるけど、彼女たちみたく何かできるんじゃないだろうか」って勇気をくれるような物語=「みんなで叶える物語」が見たかったんだよな。とんとん拍子で成功を描かれても、自分にとってなんの実にもならないんだよね。 ● ところで「みんなで叶える物語」てコピーの「みんな」ってどこまでを定義しているものなんだろうという根本的な話。一見、みんな=μ'sにも見えるし、みんな=音乃木坂学園の生徒たちにも見えるし、みんな=この映画にでてくるすべてのスクールアイドルたち、みんな=ラブライ部員(ラブライバー)かもしれない。これは、テレビ1期、2期、映画と経て、「みんな」のスケールがどんどん大きくなっている、ということである。なればこそ、μ'sだけによりかかる作風はテレビシリーズの進行と共に回避すべきであった。「みんな」というものが人柱のように残酷かつ空虚にしかうつらなくなってしまうからだ。ここに描かれている「みんな」=ざっくばらんに音乃木坂の生徒たち、大人たち、他のスクールアイドル達、そのファン達は、セミの抜け殻に等しいものにすぎない。人格を持ったキャラクターなはずなのに、それが悲しい。 ● アイドルの甲子園たるラブライブ!を描写せず、音乃木坂学園の廃校阻止・ラブライブ!優勝、を通り越して(というか、ラブライブ!という大会があるという設定自体、1期には不要のものとなってしまっている感がある)、ただ人気が出たことを精神面的な終着点(この映画の前半終了時)にしてしまったのは痛恨だろう。この失敗はどこまでも『ラブライブ!』の足を引っ張ることになる。快楽だけを求めると、やがて地獄がまっているのである。『アマデウス』や『バリー・リンドン』のように。だが、現実はもっと残酷で、μ'sがいかに凋落させられようが、木谷社長や花田大先生は、儲けた札束を風呂敷に詰めて逃げるだけだ。終わりなき奉仕を続けさせられる少女たちの亡骸を足蹴にしながら。まさしく、顔を最後まで見せなかった映画の中のラブライブ運営のように。『ラブライブ!』が本当に好きなればこそ、この映画を高く評価するわけにはいかない。という結論に落ち着いている。申し訳ない。しかし、一定の娯楽性を持ちうる作品であることは確かであるとも思っていて、だからこそ、こういう評価を書いて尚、もう少しラブライブ知らない誰かを(俺のおごりで)誘ってみようかなーとか思っていたりする。だめじゃん。 ● 有終の美をテーマとした本作だけど、本当にそううまくいくものなのだろうか。フィクションは現実に負けるのか、それとも勝つのか。サンシャインの台頭もあるし、次回のライブでそのもろもろにけりがつくかどうか、見守りたい。というわけで円盤買います(タイラー、あんたに共感はしているが、こればかりは曲げられん。さあ俺を殺せ)。